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スカウト(と言えば聞こえはいい)
事前にわかっていれば、少しずつ持って帰っていた。しかし、それは突然のことで、どうしようもなかった。
鬼頭茉白は両手に大荷物を抱え、ヨロヨロと歩く。手に持っているのは私物だ。
「ほんっと信じられない……」
こんな茉白を見ても、周りの人間は誰も手を貸そうとしない。それどころか、こちらを見ながらこそこそと囁いている。どうせ陰口だろう。本当に信じられない。
ようやく出口に辿り着いた時、茉白は男性二人とすれ違った。一人は社長秘書で、彼はこちらを見ようともしなかった。しかし、一緒にいたもう一人が不意にこちらを振り返る。
「ん?」
知り合いにでも会ったかようなその勢いに、茉白は思わず足を止めた。
「君」
「……はい?」
声をかけられ、更に驚く。
彼は、茉白を食い入るように見つめていた。しかし、茉白には全く覚えがない。彼のような人に会っていたら、決して忘れないだろう。それほどまでに、彼は印象的な容姿を持っていたのだ。
170cmという高身長の茉白よりも頭一つ分は高い。濡羽色の髪にダークブルーに近い灰色の瞳、通った鼻筋に薄い唇、全ての形が整っており、美しく配置されている。ともすれば、作り物のように。
「あの、何か?」
男がそれ以降言葉を発しないので、痺れを切らした茉白から話しかける。すると、男はハッと我に返り、突然尋ねてきた。
「その荷物は?」
質問の意図がよくわからないが、尋ねられたのだから答えるしかない。
「私物です。今日で退職しますので、持ち帰るんです」
「退職?」
「はい」
「そうか」
「瀧野瀬様、社長がお待ちですので」
社長秘書が男を急かす。男は僅かに表情を歪めた後、おもむろに名刺を取り出し、茉白に押し付けた。両手が塞がっていたので、肩にかけているバッグに直接放り込まれる。
「君にぴったりの仕事がある。紹介するから連絡をくれ」
「え、あ、ちょっと!」
男は言いたいことだけを言って、足早に行ってしまった。追いかけようにもこの荷物だし、もう一度社内に戻るなど絶対に嫌だ。
茉白は仕方なくそのまま会社を出る。その瞬間、強いビル風に煽られ、長い髪が舞った。
「いったいなんなのよ、もう!」
首を大きく振って顔にかかった髪を後ろに流し、茉白は駅に向かって歩き出す。
決して振り返らなかった。
たった二年しか務めていないが、自分なりに精一杯頑張ってきた。勤めていた会社である小路商事はそれなりに大きく、労働条件も悪くなかった。この先も長く働くつもりだった。しかし──
『A社への支払い金額が違うんだけど、誰が処理したの?』
『鬼頭さんです』
『A社? 私の担当では……』
『鬼頭さんが処理したんでしょう? ミスは素直に認めなさいよ!』
A社は茉白の担当ではない。にもかかわらず、処理者は茉白になっていた。誰かが勝手に茉白のIDを使って作業をしたのだ。だが、証拠がない。
こんな風に他人のミスをなすりつけられたり、出席しなければいけない会議の連絡が来なかったりなど、茉白は日常的に嫌がらせを受けていた。
理由はわかっている。苛められていた後輩を庇ったからだ。
この会社は労働条件は悪くない。が、中の人間関係はいいとは言えなかった。
表向きは和気あいあい、しかしその実、明確なヒエラルキーが存在している。どこの会社でもあるのだろうが、ここはあからさまだった。
一般社員でそのトップに立つのは、副社長秘書である小路里穂。社長の娘である。
里穂は両親に溺愛され、甘やかされて育ってきた。故に、奔放で我儘である。要領がいいので仕事はそれなりにできるのだが、人間関係は学生時代を抜けきらない。徒党を組んで、気に入らない者を虐げるということを繰り返す問題児だ。
そういうことが大嫌いな茉白は、つい口を出してしまった。そして、その瞬間から彼女にロックオンされてしまった。
無視されたり悪口を言われるくらいなら放っておけばいいのだが、仕事に関わることまで手を出されるとどうにもならない。茉白は何度も上司に相談したが、のらりくらりと躱されるばかりだった。彼らも里穂には口を出せないのだ。
そうこうしているうちに、苛めはますますエスカレートし、ついには情報漏洩の疑いをかけられてしまった。
証拠不十分で警察に突き出されることはなかったが、それとなく退職を促される羽目に。
もちろん、茉白はそんなことはやっていない。しかし、それも証明できない。
このままここで働いていても、里穂が会社にいる限りこういったことは続くだろう。今回は助かったが、次はどうなるかわからない。本当に犯罪者にされてしまってはかなわない。
──というわけで、この理不尽に納得はできないが、茉白は仕方なく退職することにしたのだった。
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