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何もかもが想定外
茉白は、目の前に建つ少々寂れた雑居ビルを見上げ、迷い始めた。
パスケースから先日もらった名刺を取り出し、もう一度ビルを眺める。住所、間違いなし。ビル名、間違いなし。ここで合っている。
「あの人、いいスーツ着てたんだけどなぁ」
目が肥えているわけでもない茉白でも、あの男が着ていたものが高級だとわかった。身体に無理なくフィットしていたことから、オーダーではないか。
しかし、目の前の建物は薄汚れており、怪しげな会社が入っていそうな雰囲気を醸し出している。
ビルの一階は、年季の入った喫茶店。今流行りの、と言いたいところだが、映え要素は皆無である。ただただ古いだけの店で、客もあまり入っていない。いや、入ってはいるのだが……見た目で判断してはいけないとわかってはいても、つい避けたくなってしまうような強面の人間が数人。正直言って、怖い。控えめに言って、逃げたい。
だが、あの男は言ったのだ。茉白にぴったりの仕事があると。しかも、紹介してくれるとまで。
まだ再就職に困る年齢ではないが、それでもスムーズにいくかわからない。それに、どうもあの男のことが気にかかった。
「株式会社ブラスト 代表 瀧野瀬颯」と書かれた名刺を見つめる。
「ここで迷っててもしょうがないし、とりあえず行く!」
帰るという選択肢もあったが、ここまで来たのだ。何もせずに帰ればきっと後悔する。そう思い、茉白は勇気を振り絞って前進する。
しかし、茉白はすぐにこの決断を後悔することになった。
このビルの四階に事務所を構える「株式会社ブラスト」は、茉白の想像とはかけ離れた会社であり、その業務内容も極めて特殊。一度足を踏み入れてしまえば抜け出すことの難しい、とんでもないところだったのである──。
*
「いらっしゃいませ、鬼頭様」
「うわっ……え? あわ、は、はいぃっ」
名刺に書かれていた住所は、このビルの四階。社名の書かれた表札を目指しドアをノックする。すると、名乗る前にスルッとドアが開いた。
茉白の目の前には黒のスーツを美しく着こなす男性がおり、恭しく一礼する。
白いものが混じる髪をオールバックにし、ノンフレームの眼鏡をかけている。口元には穏やかな笑みを湛え中へと誘う彼は、さながら執事のようだ。
一般的な中年男性とは明らかに一線を画している。イケオジというのも少し違う。礼一つ取ってみても優雅で気品があり、彼がそこにいるだけで別世界にでも迷い込んだ気になる。
声をかけられた瞬間に茉白の思考はストップし、あわあわしてしまったのも仕方がないだろう。
「お待ちしておりました。恐れ入りますが、こちらでもう少々お待ちくださいませ」
「は、はいっ」
中に入ってみて、これまた驚いた。ビルの外見と中身が違いすぎる。
株式会社ブラストの事務所内は、簡単に言うと「西洋風」。机や椅子、書類などが収められているだろうキャビネットまで、普通の会社にあるようなものではなかった。
品のある赤茶色の木材で作られたそれらには、どれも美しい彫が施されており、優美な曲線を描いている。取手も凝っていて、真鍮独特の味わい深い色味が印象的だ。決して量産されたものではない。
執事のような男性に、西洋アンティーク家具に囲まれた部屋。ここだけを見ると完全に海外である。しかし、窓の外を見てみれば、駅前の雑然とした風景が広がっており、何故だかホッとする。そのくらい、この事務所内は異質だった。
茉白は勧められるまま、革張りの立派なソファに腰掛ける。硬すぎず柔らかすぎず丁度いい。柔らかいソファだと身体が沈み込んでしまうので、立ち上がる時に若干苦労するのだ。しかし、このソファだとスマートに立ち上がれるだろう。
なんてことを考えていると、執事のような男性がワゴンを押してやって来た。彼は手際よくお茶うけの焼き菓子をテーブルに置き、カップを右手に、ポットを左手に持つ。そして、優雅に紅茶を注ぎ入れた。こんなところも執事っぽい。
「どうぞお召し上がりくださいませ」
「え、あ、はい……」
圧倒される。自分はいったいどこに来たのだろうかと混乱する。
だが、芳しい紅茶の香りと美味しそうな菓子の匂いに抗うことはできなかった。茉白は焼き菓子を一つ手に取り、そっと口に入れる。
「……美味しい!」
思わずそう呟いていた。ハッとして男性の方を見ると、彼は「それはようございました」と穏やかに微笑む。
紅茶もとんでもなく美味だった。これまで飲んできたものとは全く違う。
「紅茶もすごく美味しいです」
うっとりしながらそう言うと、茉白の背後から別の声がした。
「森章の淹れるお茶は絶品だからな。いや、菓子もか」
驚いて立ち上がるが、その声の主はもう一度茉白に座るように促し、目の前にやって来た。そして、ニヤリと口角を上げる。
「よく来たな、鬼頭茉白。株式会社ブラスト代表、瀧野瀬颯だ。彼は、俺の秘書の森章」
前の会社を退職した日に出会った、見目麗しい男。
友好的な笑みを向けているが、その目は違う。まるで獲物を狙う捕食者のようなそれに、茉白はゾクリと悪寒を覚えるのだった。
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