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機材に戸惑い、生音にビビり、初めての演奏にテンションが上がる。
翌日、午後五時。今日は丸一日、頭の中で同じ曲が流れ続けた。気がふれそうだ。でも覚え、歌えるようになるにはひたすら聞くしかなかった。曲をかけながら課題をやったのだが、出来については自信が無い。集中力を大分欠いたからな。
指定された音楽スタジオとやらの扉を恐る恐る押し開ける。革ジャンを着たモヒカン頭の集団に取り囲まれたらどうしよう。それとも煙草を吸いながら、よう姉ちゃん、何しに来た、とパンクな兄ちゃんに凄まれるかも知れない。そんな不安を抱いていたのだが、ロビーには後輩三人しかいなかった。ほっと胸を撫で下ろす。お疲れ様です、と会釈をされた。
「お疲れ。いやぁ、初めてスタジオなるところに来たから緊張したよ」
「何でですか」
「バンドなんて陽キャとは真逆の人間なんでね」
その時、Dスタジオどうぞ、とスタッフさんが声を掛けて来た。みっちゃんとえりはそれぞれギターとベースのケースを担ぐ。さっちんだけ荷物が少ない。ドラムは道具が要らんのか?
スタジオの中には色々な機材が置かれていた。三人は手慣れた様子で準備を開始する。ピアノを少し習っただけの私にはさっぱりだ。何故か壁一面に鏡が掛けられている。ポーズの練習でもするのかね。手持無沙汰で皆の様子をぼんやり眺める。不意にマイクが差し出された。
「あとは電源を入れれば使えます」
「そうか。ってうわぁっ!?」
急にシンバルの音が鳴り響いた。音、でっか! 心臓がドキドキする。こんなに鼓動が高鳴ったのは恭子に告白した時以来だ!
「大丈夫ですか?」
みっちゃんが笑いながら覗き込んでくる。びっくりした、と正直に答えた。
「葵さん、生音って初めてでしょうか」
「そうだよ。言っただろ、バンドなんて縁が無かったって」
「ライブとかも」
「行った経験、無し」
今度はえりがベースを弾き始めた。おおう、腹に響く低音だな。びくつく私にみっちゃんは微笑みかけた。
「じゃあ耳がおかしくなるかも知れません。結構、音が大きいので」
「マジか」
「まあ、贅沢なカラオケとでも思ってくれれば」
それは後輩達に悪い気がする。一生懸命演奏してくれる人をカラオケ扱いなんて出来ない。
しばらく各々、ギターをかき鳴らし、ベースを弾き、ドラムを叩いていた。私も歌詞を確認する。まだ覚えて切れていないから、今日はスマホを見つつ歌うとしよう。やがて、合わせますか、とみっちゃんが手を叩いた。緊張が一気に高鳴る。
「お、おい。スタートはどうやるんだ?」
私の問いに、はいっ、とさっちんが手を上げた。
「私がスティックを鳴らしてカウントします。みちことえりがそれに合わせて演奏を始めるので、葵さんは聞きながら歌い始めて下さい」
「まあ一度やればわかりますよ」
その一回目が大変なんだ! いきますよっ、と遠慮なくさっちんが宣言する。あ、そうだっ! マイクの電源を入れなければ! しまった、ちゃんと音が出るか確認していないぞ! あぁっ、だけどカウントが始まってしまった! 取り敢えず電源は入れた! うわっマジで音がデカい! ええと、ええと、まだだな。落ち着け私っ、昨日散々聞いた曲じゃないか。もうちょい。もう少し先が歌い出しだ。スマホを目の高さに掲げて歌詞を見る。よし、よしよし! 今!
握ったマイクに声を押し込む。歌詞を目で追い必死でなぞる。書かれた文字を口に出し、吹き込んでいく行為。歌うってそういうことだよな。悪いが上手い下手は指摘しないでくれ。なにせ突貫の代役、穴埋めだけで必死なんだ。
初めての合わせはあっという間に終わった。全身を血液が巡っているのを感じる。何だろう、今までの人生で経験した覚えの無い高揚感だ。でっかい音にびびり倒して、歌詞を読みながら綱渡りのように歌い切って、そんな格好良くもない代役が思うには厚かましいかも知れないが。
めっちゃ、楽しい。
「葵さん、歌、上手いですね!」
えりが手を叩いてくれた。ね、とみっちゃんも賛同してくれる。
「よせやい。おだてたって夕飯しか奢らんぞ」
「奢ってくれるんですか。ありがとうございますっ」
「一人五百円ずつな」
「あはは」
そんなやり取りの傍らで、さっちんだけは何も言わずただ薄い笑みを浮かべていた。
「もう一回、やってみます?」
みっちゃんに言われて、ちょい待ち、と私は水を口に含んだ。
「よし、いけるぞ。頑張るっ!」
「よっしゃー、じゃあもういっちょいってみましょー!」
「おー!」
私にあるまじき充実ぶりだな! びっくりだ!
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