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千夜一夜
雅樹が左手を挙げると吸い寄せられるように一台のタクシーが路肩に停車し後部座席のドアが開いた。思わず木蓮の足は竦んだ。
「やめるなら今だ、乗らなくても良い」
「やめないわ」
その手が助手席のヘッドレストを掴み座席の奥に腰を下ろした。
ギシっ
座面のスプリングが軋み、木蓮の心臓は跳ね上がった。次いで雅樹が乗り込み後部座席のドアが静かに閉まった。
「お客さん、何処まで」
「西念の和田コーポレーションまで、支払いはチケットでお願いします」
「はい、西念ですね」
「なに、会社に行くの」
「隣のマンションに俺の部屋があるんだ」
ビビビビビビ
その音に木蓮は飛び上がった。何が起きたのかと運転席を見遣ると料金メーターの横に深夜料金と表示されていた。
「あー、うるさくてすみません」
「いえ」
「これから深夜料金になりますから」
22:00の街は騒がしく楽しげだがタクシーの車内には気不味い空気が漂っていた。木蓮は反対車線のヘッドライトを目で追い、雅樹は賑やかな街並みを車窓から眺めていた。
(ーーーー!)
無言の雅樹の指先が座面に置かれた木蓮の指に触れ力強く手を握り締めた。手のひらはじっとりと汗ばみ、脈打つ血潮を感じた。どうして言ってしまったのだろう、木蓮は姉の婚約者に一夜を過ごして欲しいとせがんだ自分を恥じた。
(後悔したくない、後悔したく無いから)
煌びやかな街から遠ざかったタクシーは明かりが消えたオフィスビルの谷間を走り続けた。交差点の向こうに和田コーポレーション本社ビルが見えて来た。確かにその手前には白いタイル貼りのマンションが建っている。
(5階、8階、12階、さすがお坊ちゃん、高そうなマンションね)
「あ、運転手さん」
「はい」
「ここで降ろして下さい」
ハザードランプが点滅し2人は片側3車線、大通りのポプラ並木に降りた。
「どうしたの」
「馬鹿かおまえ、おまえを正面玄関で降ろせる訳ないだろ」
「ーーーあ」
「ごめん、言い方キツかったな」
そう、雅樹は未だ独身とはいえ婚約者が居る身、これは人の道に反した行為なのかもしれない。
「これって浮気とか不倫になるの」
「そんな悲しい事言うなよ」
2人は車通りの無い道を曲がり管理人室脇の入り口からエレベーターホールへと向かった。上階へのボタンを押す。木蓮の脚は震えた。
「嫌ならなんもしねぇ」
「私が頼んだのよ」
「もう少し恥じらえよ、可愛げねぇな」
「うるさいわね」
この気軽さが心地良かった。
ポーーン
エレベーターの扉が開き、2人は足を踏み入れた。
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