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エレベーターは8階で停止した。木蓮の顔を振り返る事なく雅樹はポケットから部屋の鍵を取り出した。雅樹の部屋は810号室、廊下の一番端の大通りに面した角部屋だった。
かちゃん
鍵穴に差し込まれたシリンダーキーが回り扉が開いた。雅樹の首筋から香る柑橘系と男性臭が混ざり合った独特の匂いが木蓮を包み込んだ。
「散らかってるけど」
「お邪魔します」
パンプスを揃えて振り向くと素朴で温かみのある家具が並んでいた。キッチンには冷蔵庫と電子ケトルしか無く不思議に思って尋ねたところ「食事は母屋で済ませるから要らない」との事で合点がいった。
「へぇーーー、あんたの事だからアイアンフレームとか黒っぽい家具が好きなのかと思っていたわ」
「ギャップ萌えするだろ」
「したした、ギャップ萌えした」
初めて会った日も同じ会話を交わした。その時の笑顔となんら変わらない面差しに木蓮の胸は痛んだ。
「木とか布が好きなんだよ」
「高そうなリネンね、あんた本当にお坊ちゃんよね」
「まぁ座れよ」
「何処に座れって言うのよ」
生成りのラグカーペットが敷かれたフローリングの床、白い布帛のソファの上は雑誌や小物、脱ぎ散らかした衣類で悲惨な状況だ。その隙間があるとすれば目の前のクイーンサイズのベッドしかない。
「ーーーここに座れって言うの」
「襲ったりしねぇから黙ってそこに座れ」
「ーーー分かったわ」
ぎしっ
木蓮のベッドの寝心地も悪くはないが、このベッドの腰掛けた感じや程よい弾力は横になればさぞ心地良いだろうと想像し顔が赤らんだ。
「なに1人でニヤけてるんだよ」
「う、うるさいわね!さっさと片付けなさいよ」
そこで木蓮は気が付いた。
「ね、ねぇ」
「なんだよ」
「まさかここが新居とか」
「そんな部屋におまえを連れ込むかよ」
雅樹は黙々と手を動かしクローゼットに衣類を掛け、雑誌や小物を部屋の隅に積み重ねた。
「ここはセカンドハウスにする」
「新居はもう決まっているの」
「あぁ、ベランダから見える、赤茶のレンガのマンション」
「どれ」
「アルベルタ西念、6階建、交差点の向こうに見えんだろ」
木蓮はレースのカーテンを開けると突っ掛けを履いてベランダの手摺りに掴まった。脚を伸ばして覗くとポプラの樹に囲まれたマンションが建っていた。
「新しいの?」
「新築」
「隣に公園もあるのね」
「ああ」
「子どもが喜びそうな良い所ね」
雅樹はそれには答えなかった。
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