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新婚旅行はハワイ、ラナイ島を選んだ。睡蓮には初めての飛行機、初めての海外旅行、そして雅樹との初めての夜を迎える。本来ならば挙式後翌日には出発するところだが雅樹の業務都合で日本出発は翌々日となっていた。
「睡蓮、伊月くんが来るから今夜はうちで泊まりなさい」
「先生が、どうして?」
「海外への旅行が身体に障るのではないかと心配されてね」
「ーーーやっぱり影響があるのかしら」
「あちらは乾燥しているらしいからね」
「ーーーそう」
睡蓮は常用薬が妊娠出産に悪影響が有るのではないかとの懸念を抱くようになり自己判断で服用を中止していた。ブラウスの上から聴診器をあてた伊月は不可思議な面持ちになった。
「睡蓮さん、呼吸が乱れていますが薬は飲まれていますか?」
「え、と、は、はい」
その面差しの変化を伊月は見逃さなかった。
「睡蓮さん、自己判断での服用中止は危険ですから処方された通りに続けて下さいね」
「あの、先生」
「はいなんですか」
「お薬は、赤ちゃんに影響はありますか?」
睡蓮の口から「赤ちゃん」という言葉を聞いた伊月はなんとも微妙な気持ちになった。それは木蓮がどこかに泊まったと聞いた時よりも胸の内が騒めいた。長年恋焦がれた睡蓮がとうとう人妻になるという事実、以前木蓮に「睡蓮が幸せな事が自分の幸せ」だと断言した筈がそうではない自分が居る事に気が付いた。
(なにを馬鹿な事を、私は木蓮の婚約者なんだぞ)
「睡蓮さん」
「はい」
「喘息の方でも妊娠、出産をされていますよ」
「そうですか」
安堵するその横顔に胸が痛んだ。
「ご心配な様ですから産婦人科への紹介状を書いておきます。旅行から戻られたら一度いらして下さい」
「ありがとうございます」
「ネフライザーの予備はありますか?」
「はい」
伊月は蓮二と美咲に頭を下げると聴診器を鞄に仕舞い、周囲を見まわした。
「今夜は、木蓮さんは」
「婚約のお祝いだのなんだのと街に出掛けて行ったよ」
「そうですか」
「手の付けられん娘だが宜しく頼むよ」
「はい、それでは失礼致します」
睡蓮は和かに手を振りながら伊月を見送った。
「先生、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
睡蓮の穏やかな雰囲気、血色の良い肌、伊月はその微笑みを与えられる相手が自分で無かった事を悔しく思った。
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