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どこまでも続く青。
(ーーーあいつなら飛び込んで行きそうだな)
睡蓮がウェルカムドリンクで冷を取っている間に雅樹はチェックインの手続きを済ませた。旅行会社が手配したチェックインシートに並んだローマ文字。
MASAKI WADA
SUIREN WADA
ボールペンを走らせサインをする瞬間、違和感と切なさを覚えた。
(和田、和田木蓮)
あれは1年前。
出張先のイタリアで探し出したこぢんまりとしたガラス工房での出来事だ。
<いらっしゃい>
木戸を開けた瞬間、雅樹の目に映ったのは木枠の陳列棚に並んだ色彩豊かなガラス棒だった。店の奥から白髪で丸眼鏡を掛けた高齢のガラス職人が顔を出した。
<お客さん、贈り物かい>
<女性なんですが>
<そのお嬢さんと会った時、瞬間的に感じた色は>
「ーーー赤」
<なんだって?アジアの言葉は分からん>
<赤、あの赤であれで指輪を作って下さい>
<あの色か!情熱的なお嬢さんだな!>
溌剌とした夏の花を思わせる無邪気な笑顔、飾らない言葉、にも関わらず家族や睡蓮に対する思い遣りは白く包み込む木蓮の花を連想させ雅樹を虜にした。
<白い花の模様は付けられますか>
<雛菊か>
<いえ、これです>
雅樹は携帯電話で画像検索し木蓮の花を見せた。
<あぁ、マグノリアか。じゃあ明後日取りに来てくれ>
<お願いします>
<代金は先払いだぞ>
その深紅の指輪に木蓮の名前を彫って欲しいと依頼した時、日本で睡蓮との縁談話が進んでいるとは思ってもみなかった。
「お待たせ」
「ありがとうございます」
「ポーターが荷物を運んでくれるから行こう」
「はい」
差し出す手のひらに睡蓮の手が握られる。傍目にはラナイ島に訪れた新婚夫婦だろう。そんな2人の内情は微妙だった。
「落ち着いた造りですね」
「平屋建てだから階上の物音に悩まされる事もないよ」
24室の別邸へと続く回廊はベージュを基調とした土壁で仕上げられていた。窪みにはキャンドルが置かれ夜にはライトが灯るのだと言う。
「素敵」
「気に入った?」
「はい」
「なるべく緑が多いホテルを選んだんだ」
「どうして?」
「少しでも湿気があれば喘息にも良いかと思って」
睡蓮はその心遣いに感動した。
(嬉しい)
こうして寄り添い暮らしてゆけばやがて子どもにも恵まれるだろう。木蓮なんて関係ない、気にする必要など無い。
「ありがとう」
ポーターが鍵を開けて5泊6日分の荷物を運び込む。チップを渡し扉が閉まると静けさが広がった。遠くに波の音が聞こえる。
「ベランダから海が見えるのね」
「少し狭いかな」
「そんな事、ない、です」
開放的なベランダから海が一望出来るオーシャンフロントのスタジオスイート。白を基調としたインテリアとファブリック、キングサイズのベッドがその大半を占めていた。
「ーーーベッド」
「そうだね」
あれ以来、睡蓮と雅樹は口付けを交わしていない。睡蓮は雅樹が自身に触れようとしない原因が木蓮なのではないかとそう考えた。そして雅樹は睡蓮に810号室の木蓮を重ねた。
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