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深淵
睡蓮と雅樹の新居、アルベルタ西念は和田コーポレーション本社社屋から交差点を挟んで徒歩10分の距離に建っている。レンガ畳みの小径にはオリーブの枝が揺れ、新築6階建マンションの周囲にはポプラ並木が新芽を伸ばしていた。
「家具も家電も揃ったね」
「うん」
「俺は仕事だけど睡蓮は太陽が丘に行く?お義母さんの家に行くなら送ろうか?」
「ううん、今日は細かい荷物を解きたいの」
「無理しないで」
「いってらっしゃい」
「じゃあね」
雅樹は手を振る睡蓮に微笑みながら玄関の扉をそっと閉めた。新婚旅行以来、2人は抱き締めあった事もなければ出掛ける時の口付けも無い。同僚に「知り合いがさ、悩んでいるんだよ」と良くある質問を投げ掛けてみた。
「おまえ、それセックスレスだよ。なに、広報部の弘前の事か?」
「弘前?あいつそうなのか」
「結婚5年、子どもが生まれたら危ういらしいぜ」
「5年ーーー」
「まぁおまえんとこは新婚だしな、あんな美人な奥さん羨ましいわ」
「そうかな」
そう肩を叩かれたが睡蓮と雅樹に肌の触れ合いは皆無だ。
(ーーーセックスレスもなにも、それ以前の問題だ)
睡蓮の家事は完璧で部屋の中はモデルルームの様だった。ただ、醤油一滴を食卓テーブルに溢す事すら躊躇われ緊張した。
「美味い!この生麩の吸い物、最高だね!」
「ありがとう」
「美味い!」
然し乍ら手料理は料亭並みに美味い。
「ネクタイ、紺のネクタイは何処かな」
「出しておいたわ」
出勤時にはクリーニングされたワイシャツがハンガーに掛けられ、重要な商談が有る日には大島紬の上質なネクタイが準備されていた。
(ーーーさすが叶家の長女)
由緒正しき家柄そのもの、機転が効く素晴らしい妻だった。ただ、夜の営みだけは船が座礁した様に身動きが取れなかった。
(五月蝿い、孫なんて無理だ)
片目を瞑り睡蓮をベッドに押し倒す事も出来るだろうが相手は処女で酷い事はしたくなかった。
(無理だ。こんな結婚、最初から無理があったんだ)
両家の為に、企業間の取引の為にと意を決したが自身の身体だけは如何ともし難い。睡蓮を性の対象として認識出来ない、欲情しない、勃起しない。
(ーーー木蓮)
雅樹は退社時間が早い夕暮れには、木蓮に初めて口付けた大型遊具が並ぶ公園のブランコに腰掛けて空を仰いだ。大きな溜息、胸の痛み、目の奥が熱くなる。
(ーーー木蓮)
あの朝、なにも言わずに810号室から姿を消した木蓮の心持ちは結婚式の教会で流していた涙が全てを物語っていた。瞬間、睡蓮の腕を振り解いて木蓮の手を握りたい衝動に駆られた。
(あの男が居なかったら、俺はとんでもない事をしていた)
木蓮の隣にいた男は幼馴染で婚約者だと言った。二又に分岐した道はもう交差する事は無いのか、腕時計は18:30を過ぎていた。ブランコから立ち上がった雅樹はスラックスの尻に付いた砂を払った。
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