深淵

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 アルベルタ西念の外装は赤煉瓦造りで近隣では最も高級感を醸し出すマンションだった。金沢駅から一直線片側3車線の50m道路沿い、隣には芝生が広がる公園と立地条件も良く見晴らしは最高に良かった。  睡蓮と雅樹の新居は601号室でマンション最上階の角部屋、ベランダには南向きの陽の光が降り注いだ。 (今日もなにも無かった)  降り注ぐ光の中フローリングに座り込んだ睡蓮の心は曇天だった。ハサミを握り山と積まれた小さな段ボールの荷解きをしながら身の回りの物や衣類を取り出していった。 (寂しい)  ひとつ、ひとつ人の気配が無かった部屋に生活用品を並べて行く。それは単なる儀式の様なもので心弾む楽しさは皆無だった。あんなに恋焦がれた雅樹、然し乍らあの一言で睡蓮の心は凍りついた。「睡蓮さん初めてなんでしょう」それはもう1人、処女だった女性とセックスした事を表していた。 (ーーー木蓮しかいないじゃない)  手に入れたと思ったベージュのティディベアはやはり木蓮の腕の中にあった。それでも結婚したのは私なのだから、自分は雅樹の妻で雅樹は私の夫なのだからと言い聞かせながら左の薬指の結婚指輪を高く(かざ)して見た。 (でも、こんな既製品の指輪になんの意味があるの?)  普段は父親の経営する会社に興味関心を示さなかった睡蓮だが、結納直前に叶製薬株式会社が和田医療事務機器株式会社に多額の援助を行った事を小耳に挟みその時確信した。雅樹は人身御供(ひとみごくう)で自分と已む無く結婚する事を決断したのだ。 (愛のない結婚、そういう事よね)  それでも触れ合えば身体を繋げばいつか雅樹に愛されるのではないかと思っていた。その望みも虚しく手を繋いだ事すらない夫婦関係。 (これが本当に欲しかったものなの?)  寒々しくただ広いだけの無機質な部屋。睡蓮の頬に涙が伝った。
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