深淵

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 ひとしきり泣き涙を拭った睡蓮は重い腰を上げ、夏用の薄い掛け布団の封を開けた。この布団を使う頃にはなにかが変わる、変わっていると願いながら寝室へと運ぶ。 ルルルル ルルルル  程なくして携帯電話が鳴った。雅樹からの連絡かと小走りでそれに飛びついたが義母の和田百合からの着信だった。 (お義母さま)  朝から気が重い。 「もしもし、睡蓮さんおはよう」 「おはようございます」 「なにをしているの?」 「引越しの荷物を片付けていたんです」 「まぁーーー!そんな事は雅樹に任せなさいよ!」 「雅樹さんもお忙しいでしょうし」  百合は矢継ぎ早に畳み掛けた。 「ねぇねぇ、遊びにいらっしゃい」 「そんな毎日、お邪魔でしょうし」 「そんな水臭い事言わないの!美味しいパウンドケーキを頂いたからお茶でも飲みましょうよ」  一方的に捲し立てられた睡蓮は渋々身だしなみを整えた。階段を降りて白い日傘を開くと陽炎(かげろう)が揺れていた。 (面倒だわ)  義父母の邸宅は和田コーポレーション社屋の裏手にある。睡蓮と雅樹が住むマンションから歩いて10分、白い洋風の二階建て特別注文の青い瓦屋根、エントランスにはユーカリやオリーブの木が揺れ、薔薇の花が咲くガーリーな雰囲気の門構えだった。 (疲れる)  百合は男児に恵まれたが望んだ女児とは縁がなかった。それ故義理の娘が出来た事をそれはそれは喜び毎日の様に自宅へと招いた。然し乍らその誘いは日々の殆どを叶の家の中で過ごして来た睡蓮の身体には辛いものが有った。 「お邪魔いたします」 「敬語なんて要らないわ、さあさあ上がって上がって」  笑顔で睡蓮を迎え入れた義母は悪い人ではないが兎に角良く喋る。そして気遣いにやや欠けた。百合は頂き物だと言いながらパウンドケーキの箱を裏返して目を細めた。 「お義母さん、どうなされたんですか」 「いえね、フルーツのパウンドケーキだからラム酒が入っていないか確認したの」 「ラム酒、ですか」 「ほら、もしかしたら睡蓮さんお腹に赤ちゃんが居るかもしれないでしょう、胎児にアルコールは良くないって言うから念には念を入れなきゃ」  睡蓮の笑顔は凍り付いた。湯気が立つダージリンティーの香りはただほろ苦いだけでパウンドケーキは味がしなかった。誰も彼もが睡蓮と雅樹が結ばれているのだと信じて疑わない。その期待に満ちた目に押し潰されそうになった。 「そ、そうですね」 「睡蓮さんも気を付けてね、赤ちゃんは和田の跡取りになるんだもの」 「はい」  この空洞の心と身体の何処に命が芽生えていると言うのだ。 「ああ!そうだわ!」  百合は思い付いた様に手を叩いた。その音で我に帰った睡蓮を待っていたのはの事だった。 「ねぇ、睡蓮さんからも言ってくれない?」 「なにをでしょうか」 「雅樹のマンション、まだ解約していないみたいなのよ。お家賃が勿体無いでしょう?解約するように言って頂戴」 「マンション」 「ほら、そこのマンションよ」  百合が指差した木窓の奥には白い壁のマンションが建っていた。 「雅樹さんの部屋があるんですか?」 「あら、知らなかった?」 「お食事はこちらで召し上がっていらしたので」 「夜はあの部屋で寝ていたの、隣に家があるのに我儘でしょう?」 「ーーーそうですね、言っておきます」  そして陽が傾き始めた頃「夕飯の支度がありますから」引き止める百合に挨拶をした睡蓮の足は自然とそのマンションのエントランスに向かった。オートロックではないが管理人が怪訝そうな顔をしたので笑顔で挨拶をした。ずらりと並んだ郵便ポスト、睡蓮の目は上下左右に動いた。 (ーーーーあった、810号室)  そのネームプレートにはWADA、和田姓がローマ字で印刷されていた。睡蓮はその場所に崩れそうになる膝に力を込めた。 (木蓮がこの部屋を訪れていた)  2人はこの事実をおくびにも出さず素知らぬ顔で自分に接していたのだ。 (許さない)  睡蓮はエレベーターホールに立つと上階へのボタンを押した。8階、開く扉には温かなライトに照らし出された待合スペースが有った。ベンジャミンの絡み合う幹、それはまるで今の自分たちの様に見えた。 (ーーーここで待ち合わせたの)  いや、合鍵を持っているのだからそのまま部屋に向かった事だろう。 (801、802、803)  睡蓮は一部屋一部屋指を指しながら810号室へと向かった。そこは廊下の突き当たりで角部屋の様だった。扉のノブを掴んで下ろそうとしたがそれは無駄な労力だった。ふと背後を振り向くと窓の向こうに見覚えの有る建物があった。 (アルベルタ西念)  そこは睡蓮と雅樹のマンションだった。こんな目と鼻の先で木蓮と雅樹が甘い蜜の時間を過ごしていたのかと思うと悲しみよりも怒りが込み上げて来た。
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