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睡蓮が悲痛な面持ちでその帰宅を待っていたとは露知らず、雅樹は笑顔で玄関の扉を開けた。その瞬間を見計ったかの様に足元にクッションが勢いよく投げ付けられた。
「えっ!な、なに!」
突然の出来事に呆然となっていると今度は皿に乗ったパウンドケーキが廊下に叩きつけられた。雅樹はその衝撃音に思わず飛び上がった。
「睡蓮、どうしたの!」
「心配だからって、お義母さんが味見していたわ!」
「なんの事!」
「ケーキにお酒が入っていたら赤ちゃんに良くないからって!」
「ーーー赤ちゃん、母さんがそんな事を言ったのか」
睡蓮は髪を振り乱し仁王立ちになって雅樹を睨み付けた。
「赤ちゃんが出来る筈なんて無いわ!」
「睡蓮、落ち着いて」
「だって雅樹さん、手もつな、つなが、ながいし!」
頬は涙で濡れ声は震えていた。
「キスだっ、てしていないじゃない!」
「睡蓮、ごめん」
「ごめんってなにが!?」
睡蓮の怒りの在処が分からない雅樹は戸惑った。
「母さんには赤ん坊の事は話さない様に言い聞かせるから」
「そういう事じゃ無いでしょう!」
「睡蓮!睡蓮、落ち着いて」
雅樹は床で無惨に崩れたパウンドケーキを跨ぎ睡蓮を抱き締めた。
「睡蓮、ごめん」
睡蓮は背中に回された優しい手に応える事はなくその腕は悲しげに垂れたままだった。とめど無く流れる涙はやがて嗚咽に変わり雅樹はその亜麻色の髪を撫でた。
「810号室」
その手の動きがピタリと止まった。
「赤ちゃんが出来るのは木蓮じゃないの」
「ーーーー!」
「あの部屋で木蓮としたのね」
睡蓮の顔を凝視した雅樹の顔色は蒼白かった。
「違うって言わないのね」
睡蓮はショルダーバッグを手にパンプスを履いて玄関を飛び出した。
(どうして、どうして!)
けれどこの背中を追い掛けて来て欲しかった。
(いつの間に!)
木蓮とはなにも無かったのだと、勘違いだと言って欲しかった。睡蓮は一度足を止めて背後を振り返ったがそこに雅樹の姿は無かった。
(もう、もう無理、もう駄目)
部屋に残された雅樹は睡蓮の後を追う事も出来ず、木蓮との一夜を否定する事も出来ずに開け放たれた扉に肩を預けそのまま座り込んだ。
「太陽が丘まで」
睡蓮はタクシーに手を挙げ実家の住所を告げた。
(ーーーでも木蓮が居る)
今、木蓮に会ったら自分がどうなってしまうのか、どんな言葉を吐くのかと考えると身の毛がよだった。赤信号で街の景色が止まる。
(会いたくない)
タクシーは住宅街の三叉路でウィンカーを右に点滅させた。
「あ、すみません」
「はい」
「すみません、やっぱり田上新町までお願いします」
睡蓮は伊月のマンションの住所をドライバーに告げた。
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