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見上げると満月が馬鹿みたいに大きく見えた。タクシーの後部座席の扉が閉まりエンジン音が遠ざかる。一時停止の交通標識で赤いブレーキランプが点灯し、悲壮感漂う睡蓮の横顔を映し出した。月明かりの中、静かな住宅街にパンプスの音が鳴り響いた。
(ーーー先生の所に行ってどうするの)
山茶花の垣根を曲がるとやや小高い場所に如何にも単身者向けの5階建のマンションが見えて来た。駐車場に停まっているBMWは伊月の車だ。ボンネットを触るとまだ暖かかった。
(でも)
バルコニー側に回り込むと遮光カーテンの隙間から明かりが漏れている。
(でも、もしかしたら木蓮が居るかもしれない)
脇に汗が滲み、動悸が激しくなった。子どもの頃からの癖で緊張すると二の腕を激しく掻いてしまう。睡蓮の腕は赤く色付いた。
(で、電話)
睡蓮は財布の中から伊月の名刺を取り出し携帯電話を握った。
ルルルル
ルルルル
ルルルル
ルルルル
ルルルル
(出ない)
もしかしたら木蓮とベッドの中で睦み合って居るのかもしれない、婚約者なのだから有り得る事だ。何処に行っても木蓮が付き纏う。睡蓮は大きな溜息を吐いて10コール目で発信ボタンを切ろうと人差し指を伸ばした。
「ーーーどなたでしょうか?」
見慣れない発信者番号に訝しげな声が聞こえた。
「せ、先生」
「ーーー!もしもし!」
「睡蓮です」
「睡蓮さん!」
急に伊月の声色が変わり、慌てている事は明らかだった。
「睡蓮さん、どうしたんですか、発作ですか!」
「ーーーーー」
「睡蓮さん、大丈夫ですか!」
主治医と患者の関係だと分かっていてもその声に縋り付きたかった。
「ーーー先生」
「はい!ネフライザーは!」
「先生、そこに木蓮は居る?」
「そこ、そことは何処の事ですか」
「カーテン」
その言葉に弾かれる様に伊月は寝室のカーテンを開けた。暗がりの中に携帯電話の明かりが睡蓮の姿を浮かび上がらせていた。
「なにをしているんですか!こんな寒い夜に!」
「木蓮は居るの?」
「居ません、今、オートロックを開けますから上がって来て下さい!505号室です。エレベーターを降りて左側です」
「行って良いの?」
「良いも悪いも、発作が起きますよ!早く!」
玄関エントランスに向かうと自動扉は既に開いていた。
(ーーー開いている)
雅樹が秘密裏に借りていた810号室の鉄の扉は睡蓮を拒絶していた。今の睡蓮にとってこのガラスの自動扉は自身を受け入れてくれている、そんな気がした。エレベーターホールに立つとそのボタンを押す前にそれは4階、3階と下りて来た。扉が左右に開くとそこには濡れた髪の伊月が立っていた。
(ーーー先生)
「睡蓮さん、どうしたんですか」
睡蓮はその胸に飛び込んでいた。
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