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(木蓮とは明日、明後日にでも本人と話せば良い)
伊月は取り敢えず、人妻を夜の部屋に招き入れているこの歪な状況をなんとかしなければならないと考えた。
「それで西念のご自宅を飛び出して来たのですか」
「ーーーはい」
「叶家に行こうとは思わなかったのですか」
「叶には木蓮が居るから」
「それで私の所へ」
「はい、ごめんなさい」
伊月は温くなったコーヒーに口を付けた。時計の秒針の音だけがする静かな部屋、睡蓮は黙り込んだままカップを両手で持った。
「あ、ミルク冷めちゃいましたね。取り替えましょうか」
「先生、憶えていて下さったんですね」
「なんの事でしょうか」
目の周りを真っ赤にした睡蓮は力無く微笑んだ。
「まえ、病院で私がホットミルクを注文した事を憶えていてくれたんですね」
「たまたまですよ」
「嬉しかった」
「嬉しかった、ですか」
「はい、私を見てくれる人に出会えた様な気がして嬉しかったです」
「叶家の皆さんだって睡蓮さんの事を大切にされているじゃないですか」
「ーーーそれとこれとは違うわ」
「そうですか」
「私も血の繋がりが無い誰かと結び付きたい」
「雅樹さんが居るじゃないですか」
「紙の上だけの繋がりだわ」
睡蓮は左の薬指を弄りながら半ば投げやりな口調で言い切った。
「雅樹さんと話し合いはされたんですか」
「ーーーしていません」
「まだ結婚式を挙げられて1ヶ月です、他人同士分かり合えない部分も多いと思います。一度真正面から向き合われては如何ですか?」
「ーーー先生」
「送って行きます。雅樹さんもご心配されているでしょう」
「心配なんて」
「準備しますから待っていて下さい」
伊月はコーヒーカップをシンクの中に置くと隣の部屋に向かった。リビングの明かりを頼りに暗がりでジーンズを履き、シャツのボタンを指で摘んだ。
「ーーーー!」
睡蓮は伊月の背中から手を回し軽い羽根の様に抱き付いた。
「睡蓮さん、なにをしているんですか」
「先生、昔みたいに伊月くんって呼んで良い?」
「ーーーえ」
「呼びたいの」
伊月の身体は硬直して微動だにしなかった。背中に感じる睡蓮の温もりと激しい鼓動、匂い立つ女性の香り。理性と欲望がせめぎ合いゆらゆらと揺れた。
「睡蓮さん、私は焦茶のくまですよ」
睡蓮の絡めた指先がピクリと動いた。
「私はベージュのくまではありませんよ、あなたが木蓮に投げつけて捨てた焦茶のくまです」
「それは」
「ベージュのくまが思っていた物じゃなかった」
「ーーー」
「だから今度は焦茶のくまにするんですか」
伊月は睡蓮の指先を一本、また一本と静かに外してシャツのボタンを留め始めた。その後ろ姿は少し哀しげに見えた。
「はい、これを羽織って下さい」
睡蓮に向き直った伊月は普段と変わらぬ笑顔でデニムのオーバーシャツを手渡した。我儘な自身の行動を恥じた睡蓮はその面立ちから視線を外した。
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