810人が本棚に入れています
本棚に追加
上弦の月 下弦の月
白い部屋、眩しいLEDの蛍光灯、注射台の上に肘を着けた睡蓮は思わず顔を背けた。その苦々しい面持ちに注射針を腕に刺しながら看護師が笑った。
「睡蓮ちゃんは本当に採血が苦手なのね」
「血を見たく無いんです」
「ほーーら、どんどん採っちゃうわよ」
「やめて下さい」
「ほーーら」
「やめて下さい」
睡蓮と看護師が遠慮なく遣り取り出来るのは、睡蓮が如何に長期間この呼吸器内科に通院しているかを物語っていた。物心ついた頃にはこの部屋で吸入器を口に当て、レントゲン室の待合の椅子に座り、泣きながら採血を受けた。
「あれ?おじいちゃん先生は?」
高齢の主治医は大学の教授になり目の前の椅子には幼馴染の伊月ちゃんが座り聴診器を胸に当てていた。
「睡蓮さん、今日から私が睡蓮ちゃんの主治医ですよ」
伊月は喘息を患う睡蓮を助けたいが為に金沢大学医学部を目指し医師の資格を取得した。睡蓮が高等学校を卒業して以来の6年間を伊月は睡蓮の主治医、家庭医として寄り添って来た。
「でも睡蓮ちゃん、残念よね」
「ーーーえ、なにが残念なんですか」
「田上先生、九州の大学に転勤になるんですよ」
「ーーー転勤、転勤ですか!?」
「そう、九州大学、栄転ね」
睡蓮は隣室で診察をしている伊月に向き直り、カーテンを思い切り開けてそれが事実なのかと問いただしたい感情に駆られた。
「あっ!」
気が付けば椅子から立ち上がり、血管の壁を注射針が突いていた。
「イタっ!」
「あっ!駄目ですよ!動かないで!」
「ごめんなさい」
「痛かった?ごめんね、内出血するかもしれないわ、ごめんね」
「いえ、私が悪いんです」
そしてこの突然の転勤については叶家でも頭痛の種となっていた。
「まさかこんな早くに転勤になるなんて」
「木蓮、伊月くんからなにか聞いていたのか?」
「ーーー聞いて、ない」
木蓮も予想外の出来事に戸惑った。
(なんでこのタイミングで?)
ふと雅樹との一夜が頭を過ぎった。まさか知っていた、いや、あのマンションに木蓮と雅樹が入る現場を伊月が見ていたとは考え難い。木蓮も伊月にそんな素振りを見せた事はない。
(まさか睡蓮が伊月に話したの?)
西念の家から突然飛び出した睡蓮。その原因が雅樹との逢瀬だとして訪ねた先が伊月の部屋だったら。
(810号室の事を伊月が知ったとしたら)
木蓮の手のひらに汗が滲んだ。
最初のコメントを投稿しよう!