上弦の月 下弦の月

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「ごめん、お待たしました」 「いつ、きーー先生」  睡蓮と伊月の姿は金沢大学病院の展望台にあった。断崖絶壁の竹林から見下ろす浅野川、向こう岸の丘陵地には睡蓮の実家がある太陽が丘、伊月のマンションが建つ田上新町が見える。 「おもちゃ箱みたいね」 「そうですね」  2人の手には湯気が立つココアとブラックコーヒー、街を眺める木製のベンチに並んで座った。両手で包む温かさは伊月の背中の温もりを思い起こさせた。伊月は無言で白い紙コップのコーヒーを飲み干している。 「あの」「あのね」  2人同時に口から言葉が転がり出た。気不味さに無言の時間がすぎて行く。伊月の昼休憩もあと残り僅かだった。唇を動かしたのは伊月だった。 「睡蓮さん」 「なに」 「私、転勤する事になりました」 「看護師さんからお聞きしました九州だそうですね」 「医局から九州大学病院への転勤の打診があって、迷っていました。」 「それが、なんで急に」  伊月は睡蓮を凝視した。 「睡蓮さんが結婚したからです」 「私が、ですか。そんな事より木蓮はどうするの!」 「木蓮との婚約はお断りする事にしました。両親とも話し合いました」 「ーーーそんな」 「なんとなく流れで見合いした様なものですから」 (なんとなく)  睡蓮はココアに視線を落とした。自身も親に頼まれてなんとなく見合いの席に着いた。そして雅樹の性格や気質を知る以前に一目惚れをしてその後は木蓮への対抗心に囚われて半ば強引に結婚した。 (なんとなく)  木蓮が雅樹に選ばれたと知った時は悲しさよりも怒りが先に沸々と煮えたぎり、まるで幼い子どもの様に焦茶のティディベアを木蓮に叩き付けていた。 (なんとなくじゃない)  それがどうだろう。 (なんとなくなんかじゃない)  伊月が自分から遠く離れて九州に行ってしまうと聞いた今、睡蓮の胸の内には遠浅の海が凪ぐ、そんな静かな悲しみが広がっていた。鼻の奥がつんと萎み、目頭が熱くなるのが分かった。堪えられない涙が一筋流れた。 (先生がいなくなる)  然し乍ら伊月はその涙を拭う事もなく、優しい言葉を掛ける事もなかった。そしてただ一言だけを残し席を立った。 「明後日、この前と同じ時間に待っています」  睡蓮が驚いた面持ちで振り返るとその背中は振り返る事なくエスカレーターを降りて行った。
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