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百合から連絡を受けた雅樹は業務の引き継ぎを行い慌てて帰宅した。ベランダの観葉植物の青さ、風に揺れる白いレースカーテン、窓辺のソファで微睡む睡蓮は一枚の絵画の様に美しかった。
「ただいま」
「あら、雅樹さん早かったのね」
「母さんから連絡があった、病院に行ったのか」
「行ったわ」
睡蓮は亜麻色の髪を掻き上げながらキッチンに向かうとグラスに氷をひとつ、ふたつと落とし冷えた麦茶を注ぎ入れた。
「はい、暑かったでしょう」
「あぁ、ありがとう」
グラスの氷が溶け乾いた音がした。雅樹がネクタイを緩めソファーに腰掛けようとすると睡蓮はダイニングキッチンのテーブルに座って欲しいと手招きをした。
「如何したの」
「これに名前を書いて」
「これって」
雅樹の前に差し出された紙は離婚届だった。
「如何いう事」
「雅樹さんが一番良く分かっている筈よ」
雅樹の目は上下左右に忙しなく動いた。
「子どもを産む事が出来ないからか」
「出来ない訳じゃないわ、難しいだけよ」
「それなら如何して離婚なんて!」
睡蓮が記入すべき欄は全て書き込まれ印鑑が捺されていた。
「俺が木蓮と寝たからか」
「やっぱり会っていたのね」
「ーーー」
「それもあるわ」
「それ以外になにがあるんだ」
「伊月先生に私の初めてをあげたの」
1人目の証人に田上伊月の名前が有った。
「初めて?」
「初めて抱いてもらったの」
「ーーーいつ!」
「昨日の夜、伊月先生の家に泊まったわ」
睡蓮の右手はボールペンを握り左手は印鑑ケース、テーブルには朱肉が置かれていた。その左手の薬指からはプラチナの結婚指輪が消えていた。
「ーーー不倫じゃないか」
「雅樹さんも同じよ」
「俺はそんな事はしていない!」
睡蓮の握り拳は怒りで震え、麦茶のグラスに細波を立てた。
「雅樹さんの心の中にはいつも木蓮が居る、これは不倫じゃないの!」
「睡蓮の事も好きになろうと思っていた!」
「ーーーー」
「本当だ」
「好きになろうと思う、それは愛じゃないわ」
「見合い結婚だからそれが普通だろう!」
「心の中に木蓮が居るのに!木蓮と同じ顔の私を愛せるの!?」
雅樹はなにも言い返せなかった。
「こんな結婚生活、時間の無駄よ」
「無駄だなんて」
「遅かれ早かれ駄目になっていたわ!」
「ーーー」
「雅樹さんだってそう思っているんでしょう!」
「ーーー」
雅樹の指先がゆっくりとボールペンを握った。
「財産分与やこれからの事は雅樹さんのご両親と一緒に考えましょう」
「分かった」
喉仏が上下した。
「私、雅樹さんに慰謝料を払わなきゃいけないのかしら?」
手が震えた。
「それは必要ない」
機械的な返答。
「これはお返しするわ」
離婚届の上に真新しい結婚指輪が置かれ、雅樹は睡蓮の顔を見る事が出来なかった。
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