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 その夜、男は救急車で緊急搬送された。女は付き添いで同乗し、男の実家と所属事務所に連絡を入れた。  姉――ソエネは気が気でなかったが、予想を遥かに超える大渋滞に阻まれ、車で身動きが取れず、一晩中控室で過ごすことを余儀なくされた。  そして、夜が明けた。  都内にそびえ立つ病院へ向かう一台のワゴン――ロータリーを迂回して、一目ですぐ姉妹とわかる二人組を降ろすと、そのまま大通りへと走り去っていった。  零細企業の事務所のこと、社用車の使い回しは日常茶飯事である。  お揃いのサングラスをかけた二人組は、連れ立って消毒液の匂いがする通路を足早に進んだ。 「ここよ」  病室の前で立ち止まった女は、出入口の名札を見て姉に目配せした。そこは個室だった。  姉は辺りを見回し、人影がないことを確認してドアをノックした。  ややあって中にいる男の返事を聞き、薄く笑みを浮かべる。それから、ウェストポーチに入れていた果物ナイフを取り出すと、背に隠した。 「生きてる?」  足を踏み入れた姉が、開口一番そう言った。カープ女子のコーディネートをばっちり決めて、帽子を目深にかぶっている。  男は、足を投げ出してリクライニングベッドに寄りかかっていた。  二人の姿を見て、気まずそうに人差し指で頬を掻く。  姉はつかつかとベッドに歩み寄り、男を見下ろした。それから果物ナイフの鞘を抜き、男からよく見えるよう、ちらつかせた。  男はきょとんとする。 「どうした?」 「まあ見てなさい」  ベッドそばの長椅子に腰を下ろし、隣に座った女からリンゴと小皿を受け取ると、姉はおぼつかない手つきで皮むきを始めた。 「昔みたいに、リンゴが嫌いとか言わないでよ」 「わかった」 「入院ばっかりして、ホントに身体が弱いんだから」 「すまん」  差し出されたリンゴの果実はとても小さく、形もいびつだったが、男は黙って口にした。 「どう?」  姉は恐る恐る尋ねた。 「努力したんだな。偉いぞ」 「あんたね、そこは美味しいって言いなさいよ」 「そうか」 「姉さん、私の分は?」 「それくらい自分でやりなさい。子供じゃないんだから」  帽子を取り、サングラスを外すと、いつものソエネが現れた。  女は自分が買ってきたリンゴの皮むきを、自分でやる羽目になった。 「過労で倒れたんですって?」 「ああ」  男の返事に、姉はほっと胸を撫で下ろした。 「新曲、クリスマス・コンサートまでにできそう?」 「問題ない」 「そう。よかった」 「駄目よ」  女が横から口を挟んできた。姉を肩で押しのけ、男の胸元に手を伸ばした。 「見てよ、これ」  男の胸がはだけた。胸全体にたくさんの手術痕がある。その数だけ、男の寿命が削られているようなものだ。 「姉さんだってわかってるくせに。これ以上無理させたら、この人死んじゃうかもしれないのよ。それでもいいの?」  女の問いかけに、姉は自信満々に答える。 「この男は歌を作るしか能がないの。それを取り上げることは酷ってものよ。それにいくら反対したところで、この男は自分の意思を押し通すだけ。アタシ達の替え玉デビューを提案したのもそうだし、今さら何を言っても無駄よ」 「そのとおりだ」  男は我が意を得たり、とばかりに何度も頷いた。 「でもこれだけは約束して。無理はしない、休む時は休む――アタシたちは歌で結ばれた運命共同体、誰一人欠けてもこれから先うまくいきっこないんだから」 「そうですよ。もう私の目の前で倒れたら承知しませんからね」  真剣な顔で訴える女と姉に、男は目を細めて答える。 「俺は死なない。お前達二人がステージに立つのをこの目で見届けるまではな」 「ふぅん……何か策でもあるの?」  姉が身を乗り出し、問いかける。  男は首を振り、「今はない」と答えた。 「何よそれ。期待して損したわ」  肩を竦める姉を、男は宥めながら言った。 「俺達は若い。まだ時間はある。おいおい考えればいいさ」
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