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 共同控室から少し離れたプレハブの建屋に、若い男と女が、コンサート開始前から大勢のスタッフの目を避けるように引きこもっていた。  二曲目が終わった瞬間、男が女に向かって言う。 「休憩だ」  女はパイプ椅子を引き寄せて腰を下ろした。息が荒い。室内はエアコンが効いているにも関わらず、Tシャツは汗でびっしょり濡れていた。  差し出されたペットボトルを受け取ると、「すみません」と言い、一気に半分近く飲んだ。そしてタオルで額の汗を拭う。まるでボクシングのインターバルのようだ。事実、そうなのであろう。これは闘いなのだ。  男はさしずめセコンド役といったところか。幼馴染とその妹を全面的にサポートし、成功という名の勝利へ導く存在なのだから。  男はリクライニングチェアーに座り直し、すぐに三面のテレビモニターへと視線を移した。ステージに設置された遠隔操作タイプのカメラを介して、ソエネのMC状況を確認するためだ。同時に、耳に装着した高性能イヤホンから、コンサート会場の音声を漏れなく聞き取っている。 「みんな、ありがとう。次が最後の歌になります」  ソエネは用意された椅子に座り、アコースティックギターを膝に抱えた。  事前打ち合わせのとおりにステージ・ライトの光が絞られると、彼女の存在が、より際立つかたちになった。  一拍置いて語りだす彼女。その頃には会場の誰一人、声を上げる者はいなかった。  そう。四万人に及ぶ観客は皆知っていたのである。  並外れたシンガーのラスト・ソングが何であるかを。その歌詞に込められた彼女の想いを。 「聖光」――彼女のデビュー曲であり、その名を世に知らしめたスロー・バラードである。 「アタシは病気がちな子供でした。学校はつまらないし、遊ぶこともできない。生きているだけで辛かった」  MCは続く。身体を蝕む病に立ち向かう少女の勇気、歌を通じて深めあった仲間達との親睦、挫折とそれでも最後まで諦めなかった力強い意思を語っている。  明日はきっといいことあるよ――ソエネは妹によく似た声でそう締めくくった。  観客席のあちらこちらから、すすり泣く少女の声が漏れ出していた。心の琴線に触れるものだったのか、何度も頷く者も少なくなかった。  会場にいる誰もが、ソエネが自身のことを話しているのだと信じている。確かに、彼女の脇腹には手術の痕が見て取れる。疑う余地はない。  プレハブの男も、ソエネが淡々とした口調で話すのを、感慨深げにイヤホンで聞き入っていた。  ただ一人、女だけが何か言いたげに、しかし何も言わずに、タオルを椅子の背もたれにかけた。  ややあって、男が女に指示を出した。 「出番だ」  女は頷き、すぅっと息を吸った。静かに目を閉じて、姉が弾くギターの音色に合わせて歌い出す。  会場に設置されたスピーカーから夜空に響くのは、男が作詞・作曲を手掛けた「聖光」のメロディー、それとプレハブにいる女の声だった。女がソエネの替え玉とは誰も気付かず、四万の観衆はただ静かに聞き惚れていた。
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