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 予定プログラムが全て終わり、アンコールを求める観客の大合唱を横目に、男は静かにイヤホンを机に置いた。 「成功だ」  女は気が抜けた風に天井をボーッと眺めていたが、やがて目が合った男の顔に向けて声をかけた。 「顔色が悪いですよ」 「そうか」  男は素っ気なく返した。 「心臓の方はどうですか」 「問題ない」 「一度病院に行った方がいいと思いますけど」  女が心配そうな顔をしている。 「ああ、そうだな」  男はあくまで素っ気ない。  女は、はぁ、と大きく息を吐いた。 「病院、やっぱり嫌いなんですね」 「子供の頃から散々お世話になっている。好き嫌いは関係ない。ただ、昔を思い出すのが怖いだけだ」  男は腰を上げ、背伸びをした。途端、よろよろと足元がふらついた。 「あ!」 「大丈夫だ」  歩み寄ろうとする女に手の平を向けて制止し、男はまた腰を下ろした。 「少し疲れているだけだろう」 「そうですね。このところ休みなしでしたから」  女は飲みかけのペットボトルを差し出した。  男はそれを受け取り、三口飲んだ。顔色が少し良くなった。 「それにしても姉さん、あなたの生い立ちを自分のことにすり替えて、ファンの気を引こうとするのはいただけません。いくら演出だからってそれはあんまりだと思いませんか」 「使えるものは使う。それがプロだ。あいつがやっていることは正しい」 「今日の衣装、水着にした理由を知っていますか」  女は憮然とした表情で詰め寄る。 「盲腸の痕をファンにアピールするためですよ。MCの信憑性を高めるためだとか――あざといですよね」 「そうか」  笑わない男が笑うところを見て、女が驚く。 「それはいい話を聞いた」  男はペットボトルを返した。まだ少し笑っている。ツボに入ったようだ。  女は憮然とした表情を崩さず、受け取った中身を一気に飲み干した。 「結局、姉さんの味方なんですね。私が何を言っても聞いてくれないなんて不公平です」 「それは違う」  男はきっぱり否定した。 「俺は、一人のスターと、もう一人の天才のために活動している。もう少し待て。今はまだ、その時期ではない」 「天才……私のことですか?」 「そうだ」  男は真っ直ぐな視線を女に送る。  穏やかな色を湛えた瞳が、女の中の嫉妬心を優しく包んでいく――  女は中学時代を思い出していた。男の自分を見る目に、単なる近所の子に対する視線以外のものを感じていたことを。その目に自分がある種の期待を抱かなかったといえば嘘になる。そんな悶々とした日々を過ごす毎日に嫌気が差し、思い切って姉に相談してみると、即座に勘違いだと一刀両断され、あいつはそんな器用な奴ではないと、断言された。  その時は恥ずかしいやら悔しいやら――複雑な思いだった。  結局辿り着いた結論は、友情でもなく、好意でもなく、おそらくただの親愛であろうと――そう考えたとき、妙に納得した。納得せざるをえなかった。  実は、一足先に姉も同じことで悩んだ時期があったと打ち明けられたからだ。  あいつはただの寂しがり屋なんだよねぇ――姉の呟きが今も耳に残っている。  ――女は何も言わず、ペットボトルを捨てようと回れ右をした時、ガタンッと背中の方から音がした。振り返ると、男が床に倒れていた。 「嘘!」  何度も呼びかけたが、男はピクリとも反応しない。 「誰か、誰かいませんかーっ!」  女が叫びながら外に飛び出す。  しかし、その声は会場からのアンコールの大合唱でかき消されていた。
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