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【後編】
入学式終了後。
「ただいま」
205号室に帰るなり、つい挨拶してしまう。
配布物の束を玄関に置いた。ドサッという音を合図に、肩が一気に軽くなる。
入学式とオリエンテーションで、書類や冊子をたくさんもらった。想定を超える重量で、荷物を置くために帰宅したのだが。
いい匂いがした。味噌汁の香りが空腹を刺激する。
8畳のリビングへ行くと、テーブルに昼食が置いてあった。
今日のメニューは、白ご飯、豆腐の味噌汁、野菜炒めだった。ほかほかと上がる湯気に、気分がほっこりする。
脇には、カラフルな花柄の付箋紙に〈おかえり〉の文字。金髪少女の人形も、並んでいる。
「ありがとう」
ミニチュアのティーカップに牛乳を注いだ。ペットボトルのキャップ程度の容量なので、すぐに満杯となる。
こぼさないように注意しつつ、そのティーカップを人形の前に供えた。村中さんに教わった「マナー」で、毎日続けている。
シェアハウスや下宿生活だと、こんな気分なのかも知れない。自分以外の気配に、俺は安心感すら覚えていた。
思わぬ「オプション」──人形に憑いている幽霊は、家事が好きらしい。
材料さえ買っておけば、朝・昼・夜の食事を用意してくれるのだ。それも絶妙なタイミングで。
洗濯物も洗って干してくれていた。〈カーディガンはネットに入れてね〉と書き置き付きで。可愛らしい文字と付箋紙から、幽霊は女性らしい。
透明な「彼女」は、姿を見せない。「見られたくない」のだと、村中のじいさんから聞いた。俺のいない間に家事を済ませているらしい。あまり料理が得意じゃない俺としては、ありがたかった。
「彼女」の報酬は、「本尊」である人形に牛乳を供えること。カップが空になったら注ぐだけ。それだけで、面倒な家事を勝手に引き受けてくれるのだ。
透明の隣人と暮らしている気分だった。
……最高の物件じゃないか?
★
大学生活で最初の週末を迎えた。
毎日が目まぐるしかった。履修登録やら、サークル見学やら。
どこのサークルの先輩も、ギラついた目で新入生を物色してくるのだ。迫力に気圧されそうになる。
このアパートを勧めてくれた剛田先輩は、「心理学研究会」に所属していた。元柔道部のいかつい先輩なので、勧誘にも威圧感を覚えてしまう。
断りにくい俺は、心理学研究会の「お花見」に参加することになってしまった。
俺以外の1年生は、真面目そうな男子が2人と、お洒落な女子が3人だった。
「お花見」の会場は、すっかり葉桜となった公園だった。いろいろなサークルが、ブルーシートを敷いて集まっていた。
騒ぎたいだけなんだろうな。花なんかどうでもよくて。
案内されるまま「心理学研究会」のシートに座り、俺はぼんやり考えた。205号室には〈遅くなります。夕飯は不要です〉と書き置きしてきた。幽霊とはいえ、連絡しないのは申し訳なかった。
炭酸飲料で乾杯し、オードブルに箸を付けた。
義理で参加したから、せめて胃袋は満たしたいのだが。あまり美味しく感じなかった。
透明な「彼女」の手料理が、上手すぎるせいか……。
しばらくすると、お酒を飲んでいる先輩たちが騒ぎだした。歌ったり踊ったり。「花見」も「新入生歓迎」も、建前に思えてくる。
「心理学の研究なんてぇ、ほとんどしないから。ビックリしたぁ?」
3年生の桜川先輩が、耳元で囁いてきた。チューハイと香水の混ざった吐息に、ゾクッと鳥肌が立つ。
肩を揺らして跳びのく俺に、「カワイイ~」と甘く笑う桜川先輩。夜空に金髪がなびいている。いかにもクラスのトップにいそうな派手ギャルで、俺の苦手なタイプだ。
「サクラちゃん、それバラすの早くない?」
酔っ払った剛田先輩が、「サクラちゃん」こと桜川先輩にヘラヘラとツッコむ。
「だってぇ~、事実じゃん。あたしも最初に知ったとき、ちょっとショックだったしぃ」
あまりショックに聞こえない甘え口調で、再び距離を詰める桜川先輩。
聞けば「心理学研究会」は、ほとんど「飲みサークル」らしい。それが分かる名前だと認可されにくい為、表向きは硬派なサークル名で申請したのだとか。
ガッカリした様子の新入生たち。真面目な後輩の心を折るとは、とんだ「心理学」だな……。
「ヨリヒコ君も、ハタチになったらお酒飲めるよぉ~。待ち遠しいよねぇ?」
別に待ち遠しくないっす。飲酒の為に大学入ったわけじゃないんで。
というか、いきなり名前呼び……。せっかく距離を取ったのに、顔を近づけてくる桜川先輩。帰りたいですガチで。
★
どうした。
なにがどうしてこうなった──。
8畳の部屋は、酔っ払った先輩たちでひしめき合っていた。
新入生の女子は帰り、断りきれなかった男子2人が居心地悪そうに座っている。
飲みたいだけの「お花見」が終わり、なぜか俺の部屋で「2次会」が開催されることになったのだ。
剛田先輩がアパートの話題を振り、「いわく付き物件ってウワサだけど~」と周囲も盛り上がり、あれよあれよという間に「細矢宅で2次会をしよう」という話になったのだ。
俺の制止は、剛田先輩の野太い声にかき消された。家主が止める間もなく、流れるように決まってしまった。唯一の女性──ねっとりとした桜川先輩も一緒だ。
先輩たちの騒ぎ声は大きい。近隣住民や村中さんから、叱られるだろうな。理不尽だ……。
住んで1週間程度なのに、縄張りを汚された気分だ。
「彼女」に申し訳なかった。俺より「先客」なのに。この状況は意味不明だろう。
その「彼女」だが、様子が少しおかしい。「本尊」の人形が、ぷるぷる震えているのだ。
「うぉっ、人形が動いてる! 本当にいわく付きなんだな、ここ」
剛田先輩の場違いにデカい声。他の先輩たちも、人形を取り囲む。
「お、金髪だ。サクラちゃんと似てね?」
雑に人形を持ち上げた。
ヒヤリとした。剛田先輩のゴツい手に掴まれ、人形の脚がジタバタもがく。
「ちょっ、優しく持ってください!」
「やべっ! ガチで動いてるぞ! 仕掛けじゃねぇ!」
俺の声を無視して、剛田先輩は桜川先輩めがけて人形を投げた。
小さな金髪少女は、桜川先輩の膝上にポトッと着地する。
「ヤダ! なにこれキモいっ!」
跳び上がった桜川先輩。バッグで人形を払いのけた。害虫に遭遇したような対応に、沸々と怒りがこみ上げる。
人形が──クワッと口を開いた。
顔が一瞬で巨大化した。牙のびっしり生えた、胴体よりも大きな口が覗く。
いつの間にか、普段は青い瞳が赤く光っている。
8畳の部屋は阿鼻叫喚だった。耳をつんざく悲鳴の嵐。
俺は叫べなかった。「彼女」の怒りが、心になだれ込んでくる。
この怒りは、「原因」を食らわないと収まらないらしい。「彼女」がそう言うんだ、間違いない。
人形の巨大な口が、桜川先輩を飲み込んだ。
バキッという咀嚼音と共に、白い壁が赤く染まる。
★
「男性専用、って言ったのに。約束破ったんならしょうがないね~」
「すみません、片付けお願いして……」
俺の謝罪に、村中さんは「大丈夫大丈夫、たまにあるから~」と呑気な声で応じる。
翌日の昼。205号室の汚い血しぶきは、壁からすっかり消えた。元の美しい白さが戻ってきた。
血の主は──誰だっけ。思い出せないが、どうでもいい。「彼女」を傷つけた「獲物」のことなど、考えるだけ無駄だから。
すっかり元通りな部屋で、人形を優しく撫でた。ブラシで金髪もとかしてあげた。
元の青い瞳が、優しく俺を見上げる。
「昨日のこと、『なかったこと』になってるから~。隣人たちも、何も覚えてないよ~」
「記憶も食べてくれるんですね」
「周囲の記憶と、『獲物』の戸籍もね~」
「優秀なんですね、『彼女』」
「でしょ~? だから、リクエストに答えてあげてね。それが君の『任務』だよ」
「もちろん。『彼女』のためなら、なんでもできます」
生まれ変わったような有能感だ。今なら本当に、なんでもできる気がする。
「それと家主の心もね」、と村中さんが付け足したが、どうでもいい。
「彼女」は俺の全てだった。
リクエスト──俺の中に、「彼女」の感情が流れてくる。
〈次は、身勝手なイケメンを食べたい〉
「了解。俺に任せて」
そういや、剛田先輩は大柄なイケメンだったな……。
(了)
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