【前編】

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【前編】

 事故物件なのは覚悟していた。  覚悟していた、けども。  大学生になる俺──細矢(ほそや)頼彦(よりひこ)は、物件の金額を何度も見た。  ここは「ミタズ不動産」。1階が不動産事務所で、2階~6階がアパートという造りだった。  敷金、礼金、仲介手数料は不要。おまけに、大学も駅も、それなりに近い。  すぐ向かいには、商店街がある。「安くて住みやすいぞ」と、2つ上の先輩から紹介されたアパートだった。  その1階事務所で、俺は2つの物件の資料を見比べているのだが──。  1つは、312号室だ。3階にある6畳のワンルームで、トイレと風呂は別だった。  家賃は月々6万円だが、この辺りでは少し安い設定らしい。 「キャンパスのすぐ近くは、大体7万円しますよ~。ここはお買い得だよ。学生さんには特に」  ミタズ不動産のおじさんから、間延びした説明を受けた。名札に「村中(むらなか)」と書かれている、小柄でのほほんとした老人だ。 「でもキミなら、こっちもいいかもね~」  そして、もう1つの資料をやたら勧めてくるのだ。205号室の物件を。  見ると205号室は、2階の角部屋。なんと8畳もある。  それでいて家賃は──3万円。  広いのに半額。なんとなく怪しい。  ちなみに、「男性専用です」との注意書きまである。 「もしかして。事故物件、ですか?」  念のために尋ねてみた。  村中のじいさんは、1秒ほど真顔になる。  直後、穏やかに微笑んだ。仏のような、それでいて有無を言わせない笑顔……。  否定してくれよ、そこは。  ほぼ確定じゃねぇか。「先客」、住んでんだろ。 「大丈夫だよ~。あなたなら。多分ね」 「いや、『多分』って。逆に恐いんですけど」 「大丈夫、男性は滅多に被害を受けないから」 「『滅多に』って。被害者はゼロじゃないんですか」 「大丈夫だよ~。とりあえず、見学してみよっか~?」  間延びした声なのに、やはり笑顔には圧を感じた。少しも大丈夫に聞こえない「大丈夫」なんだが。  思わず「もし女性だったらどうなるんですか」、と言いそびれる。  このじいさん、とっくに取り憑かれてたりして……。  俺はハラハラしながら、怪しげな村中さんに同行した。      ★  コンクリートの階段を上り、長い廊下を進み、2階の角──205号室へ着いた。 「は~い、お邪魔しま~す」  鍵を開けるなり、空き部屋なのに挨拶する村中さん。 「ほら、キミも」  やっぱりいるんじゃねぇか、「先客」が。  内心でツッコミつつ、俺は「失礼します」と呟いた。  狭い玄関で靴を脱ぎ、廊下へ足を踏み入れた。  キレイなフローリングだった。清潔感があるし、きしむ音もしなかった。  実家の台所よりも随分小さなキッチン。小さな冷蔵庫は、備え付けらしい。  廊下の奥、ワンルームへ続く扉は──開いていた。村中さんの後から部屋に入るなり、視界に広い空間が飛び込んでくる。  午後の日差しが降り注ぎ、8畳の部屋は明るかった。家具がないせいか、余計に広く感じられる。  部屋の隅に人形があった。  明るい髪色をした、女の子の人形だ。身体は布製らしい。青い瞳が俺を見る。  何もない床にひっそりと座る人形は、異様だった。 「なんで人ぎょ……」  村中さんに「シッ!」と制された。「静かに」のジェスチャー。  人形に会話を聞かせたくないような、奇妙な反応だ。  人形の両手が上がった。万歳するように、ひとりでに──。  心臓が高鳴った。すぐに両手は下がったが、俺の鼓動はうるさいままだ。 「よかったね~、合格」 「え」 「細矢くん、住んでいいってさ」 「住んでいい、って……」 「相性悪い人なら、人形が倒れるんだよ。いやぁ、よかったね~」  よかった、のか? 「なんすか、シェアハウスみたいなシステム……」  村中さんは、穏やかに笑うだけだった。 「人形は置いたままにしてあげてね」、「優しく扱ってね」、などと意味不明な言葉を添えて。      ★  俺は結局、205号室に住むことにした。  人形が勝手に動くなんて、まともじゃないのに。  心霊物件が確定しているのに。  それでも、特に嫌な感じはしなかった。悪い霊ではないらしい。  設備もまともだった。住んでいて不便はない。  何より、家賃の安さが魅力的だった。入学費と授業料でかなりの費用が飛んだのだ、少しでも経費を抑えたかった。  そして、思わぬ「オプション」がもう1つ──。  入学式を来週に控えた週末、俺は芳ばしい香りで目覚めた。  焼いたパンと、スープの匂いだ。食欲をそそる。  布団から飛び起き、テーブルを見た。  パンとスープが用意されていたのだ。湯気を上げて、美味しそうに待機してやがる。  隣には、みずみずしいサラダまで添えられている。  ……落ち着け。俺は独り暮らしだ。  確かに、朝食用に食材は買った。  じゃあ、誰が調理したというのか。  テーブルの隅に、書き置きがあった。  カラフルな花柄の付箋紙に、〈おはよう〉と。  背筋がひやりとした。見覚えのない付箋紙に、整った見知らぬ筆跡──。 「……誰?」  思わず呟いた。俺しかいない空間なのに、ついキョロキョロしてしまう。  呟きに応じるように、カラフルな付箋がもう1枚舞い落ちた。  虚空から突如現れた付箋は、荷解き途中の段ボールへ着地する。 〈私が食事を用意します。買い出しよろしくね〉  読み終えた瞬間、テーブル横の人形が視界に飛び込む。  勝手に動いた、金髪少女の人形が。  さっきまでここになかったぞ? いつも窓際に置いてるのに。  挨拶するかの如く、人形は小さな右手を挙げた。      ★
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