人魚姫の涙。

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 気が付くと、私は家の前に立って居た。どうやって帰って来たのかわからない。白昼夢でも見ていたのかと思ったけれど、掌には確かにあの小瓶が握られていた。  そして不思議なことに、この歌声はどうやら本当に私にしか聴こえないようだった。  眠る前には囁くような子守唄に、朝には揺り起こす目覚ましのように、勉強中はBGM程度に、こちらの状況を理解しているように変わる音量は少し不気味だったものの、言葉にせずともコミュニケーションが取れているようで、私にとって心地好いものだった。  それから私は、毎日その小瓶を制服のポケットに忍ばせ、素敵な音色を聴きながら一日を過ごした。万が一割れて中の液体が溢れてしまわないよう注意しながら、秘密の宝物を持ち歩いている感覚に高揚した。  その歌はオルゴールのように繰り返され、一定のフレーズを幾つか紡いでいるようだった。  人魚の言語なのか、不思議な響きの歌詞の内容は分からないけれど、いつまでも聴いていたいと思わせる美しい旋律。私は飽きることなく、日々の雑音の中で歌に耳をそばだてた。  けれどどうしても、それが他の音に紛れてしまう時があった。ただでさえ憂鬱な、合唱コンクールの練習時間だ。 「んー、ソプラノがちょっと弱いかなぁ……ねえ、愛音ちゃんももっと声出してみて!」  いつものように口パクで乗り切ろうとしていると、合唱途中、不意に名指しで指名をされる。その瞬間、心臓が跳ねた。  本番が近いからだろう、練習を仕切っている吹奏楽部の友達も、いつになくやる気のようだった。  小学校からの仲だから、彼女は私が声を出すのが苦手なことも知っている。だから、決して責めるような強い口調ではない。  けれど私は不真面目を指摘されて、注目を浴びて、余計に萎縮してしまう。  そんな状態で、声なんて出るはずもなかった。声を出そうとして、空気ばかりが漏れる。口をぱくぱくと動かしても、音にならない。  私達の異変に気付き、何事かと静まり返る教室。その冷たい空気が余計に重く、苦しい。まるで海の底に居るようだ。  そんな静寂の中、スカートのポケットに入れていた小瓶から、再びあの歌声が聴こえ始めた。  思わずポケットに手を入れて、小瓶を握り締める。とくんとくんと早い鼓動は、私のものなのか人魚姫のものなのか分からない。  響く鼓動と旋律に包まれ、真っ白になった頭の中『私もこんな風に歌えたら。こんな風に声が出せたら』そう、思ってしまった。  そして気が付くと、小瓶から人魚の歌が止んでいた。  代わりに、私の口から、私ではない声がする。私も皆も驚いて目を見開くけれど、まるで口だけ別の生き物になったみたいに、意思とは反して歌を紡ぎ始めた。  これは、人魚姫の声だ。口から溢れる歌詞は、相変わらず人間の言語ではない。けれど、自ら紡ぐことで、自然とわかった。  これは美しい旋律に乗せられた、愛に満ちた呪いの言葉だった。 「えっ、すご。そんなに歌上手かったんだ!?」 「というか、愛音ちゃんの声初めてまともに聞いた」 「課題曲も歌って!」 「いや、でもこの歌をずっと聴いてたい、かも……」  皆は歌に潜む呪いに気付かない。ここしばらくの私と同じように、私の……否、人魚姫の歌に夢中になる。  このままではいけない。そんな確信があるのに、自分の意思では、もう止めることが出来なかった。 『その声は、人魚姫のものです、人とは違う魔法の歌声……』  あの日の店員の男性の言葉を思い出す。けれどもう、遅かった。 『聴くことが出来るのは、小瓶の持ち主だけ……』  制約から解き放たれた人魚姫は、歌を止めることはなかった。  私の意識も、直接響く歌声に次第に飲み込まれていく。波に飲み込まれるような恐怖と波間を漂うような心地好さが、思考能力を奪う。  肉体を得た歌声は、小瓶に収まっていた時の比ではなかった。聴く者全てを虜にする、暴力的なまでの美しさ。 「……」  もう誰も、声を上げない。うっとりと人魚姫の歌を聴くだけの人形にでもなってしまったよう。  そして人間の足を得た人魚姫は、歩き始める。最早、この身体は彼女の物だった。 ******* 「……おや、人魚姫は足を得たのですね……ふふ、声と足を得た彼女は、今度こそ幸せになれるのでしょうか。……王子様なんて、とっくにどこにも居ないのに」  人魚姫は歌い続ける。切なさを、恋しさを、悲しみを。きっとその喉と足が潰れるまで。  何百年も続く海のように深い愛の呪いを、かつて愛した『人間』達に振り撒きながら。
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