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昔、僕の住んでいるアパートの隣室に、由紀ちゃんという女の子が住んでいた。
あの当時、僕は小学校の三年生、由紀ちゃんは近所の県立高校に自転車で通っていた。本当は隣の県の私立高校に通いたかったそうだが、「うちはお金がないから」と諦めたのだ。貧乏なのは彼女の家だけではない。僕の家も、他の世帯も、このボロボロのアパートに住んでいる人たちはみんな貧乏だ。僕の母は『セイシンビョウ』で働けなくて、僕と母は『セイカツホゴ』で暮らしている。ちなみに父の顔はよく覚えていない。ただ母以外の女と暮らすために出て行ったのは知っている。
由紀ちゃんに話を戻そう。彼女は両親と三人暮らし。父親は会社員、母親も昼夜パートを掛け持ちしている。そんなに働いているのに、なぜこんなボロボロのアパートに隠れるように暮らしているのか分からない。親子三人、『セイカツホゴ』の僕が見ても質素な暮らし。由紀ちゃんは読書と植物の世話が好きで、優しくて慎ましやかな、美人のお姉さんだ。僕はそんな由紀ちゃんのことが大好きだった。
「ねえ、亮介くん」
ある冬の日の夕方、アパートの敷地内でボールを蹴っていると、掃き出し窓から由紀ちゃんが顔を覗かせた。
「あ、由紀ちゃん」
僕はボール蹴りをやめて彼女の方を見た。由紀ちゃんは数ヶ月前からコンビニでアルバイトをしている。いつも夕方から出かけてしまうから、こうやって会うのは久しぶりだ。
「久しぶりね。学校はどう?」
「どうって、別に」
ボロボロのアパートに住んでいる『セイカツホゴ』の僕はみんなに仲間外れにされている。僕はそのことを誰にも言っていないけど、由紀ちゃんは気づいていたと思う。
「今、暇かな? 少し、話したいことがあるんだけど」
「うん、いいよ」
「そう。じゃあ入ってくれるかな?」
彼女は立て付けの悪いサッシを大きく開く。僕は「お邪魔します」と靴を脱ぎ、自分の家と同じ間取りの居間へと上がり込む。
貧乏には独特の臭いがある。
困窮が発する気配というのだろうか。大人になった今なら分かる。ゴミや生活の怠惰による腐臭や悪臭とは違うのだ。由紀ちゃんの家はよく掃除が行き届いていたけれど、疲れた臭いは隠しようもなく部屋の奥に溜まっている。
由紀ちゃんは棚からティーカップを二個取り出す。水道から直接水を入れ、縁の欠けていない方を僕に差し出した。
「ごめんなさい。ガス、止まっちゃってて」
「ううん、大丈夫」
このアパートではそんなこと日常茶飯事だ。水道は最後まで止められないらしいけれど、僕の家は二回も止められたことがある。それが結果、我が家が『セイカツホゴ』を受けることに繋がったのだ。
金色の縁が欠けたティーカップ。綺麗な花の模様は薄くなってハゲている。まるで中世の没落した貴族か王族みたいだ。
僕たちはしばらく他愛ない話をしてひとしきり笑い、その合間に由紀ちゃんがろうそくに火をつけた。日没で暗くなった室内。ちゃぶ台の上、火の周りだけがポッと明るくなった。
「それで、由紀ちゃん。話って、何?」
和やかな空気が、吹き飛んだ。
由紀ちゃんはティーカップをちゃぶ台に置き、
「少しの間だけでいいの。この子を預かっていて欲しくて」
『この子』と言いながら、彼女は窓際に手を伸ばし、何かを持ち上げた。動物ではない。
小さな火のゆらめき。植木鉢と葉の輪郭が見える。
「ポインセチアよ」
「ポインセチア? あのクリスマスの、赤い葉っぱのやつ?」
この暗闇の中では、葉の色までは確認できない。
電気の止まった冬の室内は寒かった。
「そうよ。クリスマスにね、お母さんがパート先でもらってきたの」
ポインセチアが近所のスーパーで売られているのは知っていたけど、具体的な値段までは知らなかった。しかしこのアパートの住人には手が届かない金額なのは確かだった。
どこかの部屋からストーブを炊く気配がする。僕は冷え切った尻に痛みを覚えながら、
「預かるって、急にどうしたの?」
「ちょっとね。しばらく家を空けることになりそうなの」
「旅行?」
僕が真っ先に思いついたのは、身内の不幸だ。それ以外の旅行は金持ちの道楽だし、僕たちにはそんなことは許されていない。
「春休みまで待てばいいのに」
「うーん、それがね。まあ、事情があって。ほんの数日よ。すぐに戻ってくる予定だから」
すぐ戻ってくる。ならどうして、彼女はこんなに悲しそうな顔をしているのだろう。
「ねえ、亮介くん。知ってる? ポインセチアって、引っ越しが苦手な花なのよ」
「へえ、そうなんだ」
「できれば鉢を動かしてはいけないらしいんたけど……。君の家なら隣だし、少しくらいならお引越ししても大丈夫かなって。ちょっとの間だから、預かってもらえると嬉しいんたけど」
花なんて一年生の時にアサガオを育てたきりだ。クラスで僕だけがアサガオを枯らせてしまった。
由紀ちゃんのもの悲しそうな顔を見て、僕は、
「分かった、いいよ」
「本当に?」
「うん、任せて。お水はどれくらいあげればいい?」
アサガオは僕が水をやるのを忘れて枯らした。僕のアサガオだけが枯れているのを見て、慌てて水をぶっかけたが遅かった。
由紀ちゃんはカップの欠けたフチを指でなぞりながら、
「毎日じゃなくていいの。土が乾いてから、少しだけ冷ましたお湯をあげてちょうだい。朝のお茶の残りをあげても構わないから」
朝のお茶。朝、クラスのみんなは牛乳とかココアとかコーヒーを飲むらしい。お茶――お金のない時はただのお湯を飲んでいるのは僕だけだ。
「へえ、そんなのでいいの?」
「そう。だから、お願いできる?」
「うん、それならできると思う。ねえ、由紀ちゃん。ところでさ」
「ん?」
「最近来ている怖い人たち、今日は来ないの?」
ろうそくの向こうで、由紀ちゃんの顔が強張る。
「……そうね、今日も来るんじゃないかな。多分、これから」
「あの人たち、誰なの?」
「お父さんの知り合いよ」
ウソだ。由紀ちゃんのお父さんは静かで優しい人だ。あんな怖そうな人たちと友達なわけがない。
由紀ちゃんは俯く。
「ごめんね、亮介君。いつも迷惑かけて。でもこの件は誰にも言わないで」
「う、うん……」
「ポインセチア、私だと思って話しかけてね」
私だと思って。
何だかまるで、由紀ちゃんはどこかに行って、そのまま帰ってこないような言い方じゃないか。でも子どもだった僕は、それを口にしてはいけないような、そんな気がした。
「うん、任せてよ。大事にするよ」
「ありがとう……!」
揺れるろうそくの向こう、由紀ちゃんは感極まって泣いていた。僕は植木鉢を抱え、これをどこに置こうか考えながらアルミのサッシを乗り越えた。暗闇の中、涙ぐんだ由紀ちゃんの目はキラキラ光っている。それが僕の見た、由紀ちゃんの最後の姿だった。
夜中、隣の部屋から何やらガサゴソ音がしていたけれど、朝、僕が気づいた時にはもう、彼女の家はもぬけの殻だった。
「夜逃げしたみたいだねぇ」
うちの真上に暮らしている独り身のおばあさんが、カポカポ入れ歯を直しながら言った。僕の母はため息をついて、
「借金、けっこう膨らんでいたみたいだからねえ」
「あの由紀ちゃんだっけか。あの子、なかなか美人だったからね。風俗に売られちまうんじゃないかねえ」
「でもこれでもうヤクザは来ないでしょ。あれ毎晩うるさくてたまんないのよねぇ」
「ま、あの一家には悪いが、そりゃそうだろうね」
『借金』は分かったが『よにげ』と『ふーぞく』が分からない。翌日、僕は図書室で辞書を引き、パソコンで二つの単語の意味を調べた。『ふーぞく』で女の人の裸の写真がいっぱい出てきて、ボロいパソコンはフリーズした。司書の先生に「なんて卑猥なことを調べているんですか⁉︎」と怒られ、担任も呼ばれた。フリーズした画面では裸の女性が男の人の上に跨っておっぱいを揺らしている。もしかしたら今ごろ、一家はヤクザに捕まって、由紀ちゃんも『ふーぞく』で『ひわい』なことをさせられているのかもしれない。
ろうそくの向こう、涙で濡れた由紀ちゃんの瞳を思い出す。由紀ちゃんは多分、これから自分の身に起こることを、ある程度は知っていたのかもしれない。
どうか、由紀ちゃんが辛い思いをしていなければいい。僕は彼女の未来を案じながら、毎朝、窓辺のポインセチアに冷めたお湯をあげる。ポインセチアは春になる前に枯れてしまった。多分、僕の育て方が悪かったのだと思う。
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