少女と白鯨

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私は55歳を迎えたことを機に、30年以上勤めた会社を早期退職し、喧騒とした都会を抜け出して地方の島に移住をした。 妻は初めは反対したが、一度この島に連れてきた瞬間、360度美しい海に囲まれた広大な景色の虜になり、その後、移住するまでは時間はかからなかった。 本土から島には1日数便しかない定期船を利用する必要があり、島には小さなスーパーがあるのみで、買い物には本来不便な環境だが、今の時代はスマホで何でも注文できるため、特段不満を感じることもなかった。 そんな環境の生活の中で、私の日課は朝日が昇った時間に家を出て、海を見下ろすことができる道を散歩することだった。 今朝もまだ寝静まっている妻を起こさないようにそっと玄関の引き戸を閉めて、その道を目指し歩き出した。 その道の片側、海が見下ろせる方向には芝生の斜面が広がっており、その先は海岸に繋がっている。芝生の緑と日が差し込んで輝く海面のコントラストが美しく、私のお気に入りの場所なのだ。 家から5分ほど歩くとその道に辿り着き、今日も雲一つない快晴の元、輝く海岸を見下ろしながら歩き始めた。波も穏やかであり、打ち寄せる音は心地よいものであった。 「…ん?」 私は見下ろした視線の先、海岸の岩場に人影を見つけて足を止めた。この時間に海岸に人がいることは余り見掛けたことがなく、私は目を凝らした。 「…女の子かな。」 私はそう呟きながら芝生の斜面に足を踏み入れ、転ばないようにゆっくりと斜面を下り始めた。近付くにつれ、その人影がハッキリとしてくると、第一印象とおり少女であることに確証を得た。長い黒髪に水色のワンピース、後ろ姿だが背丈からして小学1、2年生くらいに見えた。 少女は私の気配には気付いていないようで、じーっと微動だにせずに海面を眺めているように見えた。5メートルほどの距離まで近付くと、海岸の丸石の上を歩く音に気が付いたようで、少女は私に振り返った。 気が付いた時に目と鼻の先に男性が立っていたらそれは驚くであろう。少女は目を丸くして自然と後退りをすると、乗っていた岩から足を滑らせて後ろに倒れそうになった。 そこからはハッキリとした記憶は残っていないが、どうやら火事場の馬鹿力に似た能力が発揮されたのか、少女を助けたい一心で走り込み、少女を岩の下で受け止めたらしい。 目を開けるとそこには私の腕の中で怯えている少女の顔があった。落ちたことに怯えているのか、私に怯えているのかは不明だったが、とりあえず少女をゆっくりと降ろした。立ち上がった少女は私から一步下がると頭を下げた。 「あ、ありがとうございます。あの…オジサンは何のためにウチに近付いて来て…」 少女の顔を見るからにやはり私に怯えているようで、私は誤解されないように優しく微笑んだ。 「驚かせてすまない。私はいつもこの海岸沿いの道を散歩しているんだが、見掛けたことの無い人影を見つけて、よく見たら小さい女の子だったから心配になって声を掛けようとしたんだよ。」 「…そうなんだ。ウチは一昨日この島に来たばっかだから。だからオジサン、ウチのこと知らなかったんだよ。」 「一昨日か。私も1年ほど前にこの島に移住してきたんだ。この島は素晴らしいよ、この目の前に広がる海も美しいだろ。」 「…ウチは前の方が良かった。じゃね、オジサン。」 少女はそう言って私の横を通り過ぎて芝生の斜面を上り始めた。 「あ、あの、私は松原耕二(まつばらこうじ)って言うんだ。お嬢さんの名前は?」 すると、少女は足を止めて振り返った。 「…ウチは千渡綾乃(せんとあやの)。名前言ってくれるってことは悪い人じゃないんだね、オジサン。」 「はは、しっかりした子だな。」 綾乃は一気に斜面を上り切るとそのまま私の視界から消えていった。私はふと、海に振り返り打ち寄せる波を眺めた。 「そう言えば、あの子はここで何をしてたんだろうか。」 私の呟きに波の音が重なった。
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