少女と白鯨

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朝食を終えた私は、気晴らしに家の外に出た。今日も素晴らしい快晴であり、私は陽光を全身に浴びながら身体を伸ばした。 ガラガラガラと玄関の引き戸が開き、妻が顔を出した。 「…どうした?」 「あなた、役場の分所に行かれたことあります?」 「…まぁ、住民票の取得くらいだ。一緒に行ったろう。」 「あそこにこの島の史料があるみたいですよ。もしかしたらクジラの事も何か分かるかもしれません、行ってきたらいかがですか?」 「…それは知らなかった。ありがとう、じゃあちょっと行ってくるよ。」 私は徒歩20分ほどの距離にある島民のためにある役場の分所を目指した。ただ、その分所に行くには、あの道を通る必要があった。 それは妻も知っているはずだ。ふと、後ろを振り返ると、妻は微笑みながら手を振っていた。私はサッと手を挙げると、歩みを進めた。 気持ちが何だか落ち着かないまま、あの道に辿り着くと、私は恐る恐るあの岩に視線を向けた。 そこに綾乃の姿は無かった。 「…やっぱり朝にしかいないのか。」 「誰が?」 私は背後から聞こえてきた声に心臓が止まりそうになった。紛れもない綾乃の声だった。パッと身体ごと後ろに振り向くと、仁王立ちで不機嫌そうに腕組みをしている綾乃の姿があった。 「…綾乃ちゃん。」 「約束破った。何で最近来ないの。」 「…すまない、色々あって。」 「私はオジサンなら大丈夫かなって思ったのに。」 「…大丈夫って、何のことだい?」 「ふんっ。」 綾乃は答えずにそっぽを向いた。 「…クジラは?」 私の質問に、綾乃は海を見下ろすように視線を向けた。 「…苦しそうなの。ずっと…空に舞い上がりたいのに、何かに邪魔されてるみたいに。」 綾乃の表情を見る限り、噓を言っているようには思えなかった。 「…君は本当に最近この島に来たのかい?」 私の次の質問に、綾乃は視線を私に向けるとじっと目を見つめたまま、やはり何も答えなかった。 「君の家は何処だい?」 すると、綾乃は私の背後、道の先を指差した。私は反射的に指差す方に一度振り向き、再び綾乃に向き直ると、そこに綾乃の姿は無かった。辺りを見回すと、ガサッと茂みが揺れる音が聞こえた。 「…またこの茂みか。…いや、今は駄目だ。」 また妻を心配させる訳にも行かない私は、思い留まり分所を目指して歩き出した。 …綾乃…クジラ…私にしか見えない。それなりに生きてきてそれなりに世の中を理解してきたつもりだったが、今までの経験など何1つ役に立たない現状に、頭がモヤモヤしていた。 考え事をしているとあっという間に分所に辿り着いた。平屋造りで基本的に窓口は1つしかなく、この島に住む公務員の女性と臨時職員の年配男性が居る小さな分所である。 扉を開けると、窓口のカウンターから女性が顔を覗かせた。 「あら、おはようございます。住民票ですか?」 「おはようございます。いえ、ここにこの島に関する史料とかが保管されてると聞いて、見せていただけないかと思いまして。」 「あ、それなら早乙女(さおとめ)さんに。あの扉が史料室なんで。中に詳しい方が居るんでどうぞ。」 私は頭を下げてから、特段何室とも表記の無い扉をノックした。 「はぁい、どうぞぉ。」 年配男性の声がし、私は扉を開けた。中には臨時職員の年配男性がいくつもの古い冊子を整理していた。 「おはようございます。ここにこの島に関する色々な史料があると聞いて。」 「…ありますよ。文献から最近の新聞記事まで。この島に関するものなら何でもある、私はそう自負してます。」 「…では、クジラ…に関するものとかありますか?」 私の質問に、男性は少し固まったが何かを思い出したように、壁一面に並べられている書庫棚の引き出しを開けた。 「どうぞ、こちらに。」 私はカウンター代わりに置かれているような作業机よりも中に入ることを許され、書庫棚の前に移動した。 「古い文献にはクジラに関する記述は記憶にないですが、この辺の新聞記事のスクラップにあったと思います。確か…。」 男性は一冊のスクラップブックを取り出し、私に差し出した。表紙を見ると5年前の年号が書かれていた。 「その年に発行された新聞記事の中で、この島に関するもの全てを切り抜いてスクラップしたものです。よろしければ、ロビーのソファでゆっくりお読みください。」 私は言葉に甘えて、史料室から出て待合ロビーのソファに腰を下ろしてスクラップブックにゆっくり目を通した。 「…クジラ…クジラ…。」 パラパラと何枚か捲ると、記事のタイトルにクジラの文字を見つけ、思わず立ち上がった。 「フフフ。」 窓口の女性の笑い声が聞こえ、私は顔を赤くしたまま、再びソファに座り記事に目を通した。 「…クジラがこの島の海岸に漂着。子どものクジラと見られる。…あ、結果的に助けられなかったのか。そのまま亡骸は海に戻された…か。」 このクジラと綾乃が言うクジラが繋がるのかは分からない。私はもう1枚ページを捲り、目に止まった記事を見て、思わず「あっ!!」と大きな声を上げて立ち上がった。 窓口の女性は目を丸くして、私を見ていた。 「す、すみません。」 私は頭を下げてから、深呼吸をして再びソファに腰を下ろした。 自分の目を疑いながら、再びスクラップ記事に目を向けた。 「…これは…。」 その記事には写真があり、その中の1人が紛れもなく千渡綾乃だったのだ。 「…一家全員死亡…。」 そのタイトルを見て私は震えが止まらなかった。
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