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綾乃にクジラのことは私がなんとかすると約束し、私は一度帰宅した。
「お帰りなさい。」
ずっと待っていてくれたのか、妻はすぐに玄関にやって来た。
「ただいま。お陰で少しはスッキリしたよ。」
「何か分かった事があったんですね。」
「あぁ。それで、1つ頼みがあるんだが。」
「…頼み?」
私は玄関の壁に掛かっているダイビングスーツを指差した。
「何メートルまで潜れるんだっけ?」
「私は30メートルまでは潜れますけど…。」
妻は首を傾げながら答えた。私はそんな妻を見て微笑んだ。
数十分後、私と妻はあの海岸に来ていた。妻はダイビングスーツを着用し、酸素ボンベなどの一式の準備をしていた。妻は私と出会ってから趣味としてダイビングを始め、今では指導者レベルのライセンスを持つまでになっている。妻がこの島に移住を決めた理由の1つは、島を囲む綺麗な海であったと私は思っている。
「準備出来ましたよ。」
妻は酸素ボンベを背負いながら言った。
「こんなお願いしてすまない。」
「フフフ、あなたの性格は誰よりも知っています。あなたが良い人ってことも。その綾乃さんという女の子については、あなたの話を聞いてから、私もあなたと同じ気持ちです。私は私の考えで今からこの海に潜るんです。」
いつも私を立ててくれるできた妻の顔は、いつも以上に逞しく見えた。
「さっきの話はあくまで私の仮説だ。無理はしないでくれ。」
「分かってますよ。では、行ってきますね。」
妻はそう言うと、海に入水しそのまま私が示した地点まで泳ぐと、海の中へと姿を消した。
私は妻の姿が見えなくなった後もその場所をじっと見つめていた。
「…こっちに来たらどうだ?」
私は視点を保ったまま言った。
「ウチの事に気付いてたの?」
背後から綾乃が答えた。
「君の気配には気付いてたよ。妻に遠慮してたのかな?」
「…あの人、何をしようとしてるの?」
綾乃は私の真横に移動し、私と同じ位置を見つめた。
妻が潜っていった海面の上には、透明がかった白鯨が浮かんでおり、時折悲しい声で鳴いていた。
「もうしばらく待とう。…綾乃ちゃん、君はこの世にいるべき存在じゃない。お父さんとお母さんの元に行くべきだ。」
「…………………。」
何も答えない綾乃に、私は続けた。
「もう1つ、私は考えていることがあってね。君は5年前に亡くなっている。私はこの島に来てから1年が経つわけだが、君の存在に気付けたのは数日前からだ。何故、急に君の存在に気付けるようになったんだろうって…。」
「…それは多分…ウチ、自分が死んでることに気付いたの、実は最近なの。オジサンには上手く言えないんだけど、それまでの毎日はパパもママも居ないはずなのに、それに気付かない不思議な感じだったの。でも、ウチ見たの…。」
「…石碑だね。」
私の言葉に綾乃は涙を流しながら頷いた。
数日前に私が茂みの中で躓いた石板は、千渡一家の慰霊碑だったのだ。私は当然ながら死んだ事が無いため、死後の世界の事は分からない。綾乃が、自分が死んだことを理解していなかったと言うのであれば、そういうものなんだろうと、私は自然と納得した。
「…ウチの家族の名前が書いてある石を見た瞬間、一気に記憶が頭の中に戻ったみたいな不思議な感覚がして、すぐにクジラのことも思い出したの。」
「明確な理由は分からないが、恐らく君が死を受け入れたタイミングで、神にでも選ばれた私が君の存在に気がつけたんだな。」
「…ねぇ、オジサン。」
綾乃の呼びかけに私は振り向いた。
「…ウチと出会えたこと、嫌だった?」
綾乃は悲しげで、そして少し怯えた表情で私に問い掛けた。
…きっと、今まで誰にも存在を気付いて貰えていなかったのだろう。必死に誰かに語り掛けても、反応が無かったり、怖がるような反応しか無かったのかもしれない。
そう思うと、私は綾乃が2度と悲しい思いをしないようにしてあげたいと、愛おしく感じて仕方なかった。
私は大きく首を横に振って微笑みかけた。
「綾乃ちゃんと出会えた事はきっと運命なんだと思う。私は君に会えて幸せだよ。」
私の言葉に、綾乃は涙を拭いそっと私の手を握った。
その時だった。クジラがいつもとは違う声で鳴いたのだ。
「うわぁ。」
綾乃は目を輝かせた。クジラは喜んでいると私にも分かった。
「上手くいったようだな。」
私はまだ海中にいる妻に感謝をした。
「あのクジラね、パパがずっと見たがってた白くて珍しい種類なの。…でも、パパに見せれなかったなぁ。」
プシューッ!とクジラは勢いよく潮を噴き出し、ゆっくりと空に向かって昇り始めた。
「綾乃ちゃん、パパとママにあのクジラを見せてあげなさい。」
「え?…あれ、うわぁっ!」
綾乃はキラキラと輝く、まるでこの島の陽光が作り出したような光に包まれた。
私は驚いている綾乃と向き合うと、ニコッと微笑んだ。
「君の心のつっかえが取れたんだ。本来行くべき場所に行く時が来たんだよ。」
「…オジサン。」
綾乃は私に抱きついた。
「オジサン、あったかい。」
「怖がらずにあのクジラを追い掛けて、パパとママの所に行きなさい。」
私は涙をこらえながら、綾乃を抱き締め頭を優しく撫でた。すると、綾乃を抱き締めている感覚が徐々に無くなり、綾乃が半透明に変化していった。
「ウチ、オジサンの事絶対忘れない。」
「私もだ。」
「ありがとう、オジサン。」
綾乃は最後に満面の笑みを見せると、クジラを追い掛けるように空に昇っていき、姿を消した。
私は堪えていた涙をぶわっと流し、眩しい陽光を我慢しながら天を見上げた。
「…向こうで幸せにな。」
その日の夜、私は妻と久しぶりにワインを嗜んだ。
「綾乃さんは、パパとママに会えたんですかね?」
「あぁ、きっと今頃、パパが白鯨を見て感動してるだろ。」
「あなたのおっしゃったとおり、クジラの亡き骸がゴミに埋もれているとは思わなかったです。不思議なんですけど、そのゴミの中で輝いて見えたんですよ。」
「クジラは助けてほしかったんだ。亡き骸になってもこの広大な海を泳いでいたかったんだろ。」
「フフ、そうですね。あ、そうだ、昨日漬けたピクルス持ってきますね。」
妻が席を立ちキッチンに行くと、私は一口ワインを飲んだ。
「…ん?」
外からクジラの鳴き声が聞こえた気がして窓の外に振り向いたが、キッチンの妻は無反応だ。
「あの子がパパとママに会えたことを知らせてくれたのかな。」
私はそう呟いてグラスのワインを飲み干した。
ー 完 ー
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