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唇
広海の部屋に来るか菅澤にいつも使っている店を予約してもらうか、どちらがいいか聞かれた。裕貴は即座に広海の部屋がいいと答える。決まっている。理由をひねり出してでも、広海の近くにいたい。この頃互いに忙しくて、仕事外で時間を取れていなかった。
都心某所。裕貴の住居と地域は異なる、だが似たようなセキュリティー万全の目立たない低層マンション。住人は業界人や外国人が多い。
菅澤の運転する車の中にいるあいだ、普段ならあれこれ話を振って雰囲気を明るく保つ広海が、今日はなにもしゃべらない。
あっというまに広海のマンションに着く。
「腹はへった? なんかデリバリーする?」
片田舎の町で、裕貴は祖父の代で建てた、お洒落さや新しい設備とは縁遠い似たような田舎家に住んでいた。ろくに畳の入れ替えもしないぐざぐさと毛羽立った畳の感触。それなのに、と広海の部屋に来るたび思わせられる。去年、頭金を裕貴が出して実家を建て替えた(裕貴がすべて一括で出すことも可能だったが、親が「それじゃ悪いから」と言って月々ローンを払っている)。
今や都心の、同世代はおろか倍の年齢でもほとんどの人が毎月支払い続けるのは困難だろう家賃のかかる隠れ家みたいなマンションに住んでいる。
遠くまで来た。広海とふたりきりで。
「予定があるのに悪いな」
「いいよ。どうせ出ても出なくてもいいパーティーだから。それよりどうしたんだよ、改まって」
不祥事、という単語がちらとよぎるが、広海に限って、と裕貴はすぐさま打ち消す。広海にだけはそんなことあるはずがない。明るく正しく、あの頃となにも変わらない広海。
誰もが知る快活なキャラクターの国民的俳優が、この前暴力沙汰を起こして逮捕された。そんなことが日常茶飯事のこの世界で、「あるはずがない」ことなど存在しないのはわかっている。それでも広海だけには、あって欲しくない。もしそんなことがあるとしたら、自分がそれをひっ被って訴えられたりネットの罵詈雑言を受ける、と裕貴は決めている。
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