十一 妻の小袖

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十一 妻の小袖

 長月(九月)初旬。晴れた昼四ツ(午前十時 巳ノ刻)。  森田は内縁の妻のお絹を連れて、日本橋呉服町の呉服屋、有村屋に入った。内縁と言っているだけで、森田の周囲は絹を正妻と認めている。  呉服屋有村屋に現れた森田と連れの女を見て、宗右衛門とお喜代は、森田の連れの女が、森田の御内儀の、お絹とわかった。 「旦那。先日はありがとうございました」  宗右衛門は森田に筒持たせ事件の礼を述べた。 「この界隈も、人通りが増えました。みな、森田さんのおかげです」  お喜代も礼を述べて森田に御辞儀している。 「いやいや、私の方が礼を言わねばなりませぬ。  宗右衛門さんとお喜代さんの手助けがあったればこそ、成しえた事件解決でした。  今日は妻のお絹を連れてきました。小袖を見せて下さい」  あの、宗右衛門を足蹴にした折とは打って変わり、森田は丁寧にお絹を紹介した。 「絹でございます。此度は森田がいろいろ御厄介になり、有り難うございました。  また、お喜代様には、森田に、一方ならぬ御好意を寄せて頂き、森田の女房のこの私も、女房冥利に尽きるというもの」  絹が挨拶を兼ねてそう述べた。  お喜代と宗右衛門の顔色が変わった。  森田から、お絹は吉原の橘屋の下女と聞いていたが、実際は上女中か、没落した武家の娘ではなかろうか。それにもまして、この質実剛健を絵に描いたような森田は、本当に浪人か。北町奉行所の与力と親しい事からして、御上の密偵でないのか。いや、密偵であっても、俺たち呉服屋は筒持たせの片棒を担いだわけじゃねえ。俺たちが被害者だ。  そう思いながら、宗右衛門は己たちに何か嫌疑をかけられはしないか心配になった。 「お喜代さん。お絹に小袖を見せて下さい。予算は三両です」  森田が、宗右衛門から依頼された筒持たせ事件解決の取り分の二両と、有村屋警護の取り分の一両の計三両を、お絹の小袖購入に充てようとしているのがお喜代と宗右衛門に分かった。  お絹さんは森田さんの理無い仲の女でも、内縁の妻でもない。周囲はお絹さんを森田さんの正式な御内儀と認めているのだろう。お喜代はそう思った。 「森田の旦那は・・・」  宗右衛門は、森田が御上の密偵か否か訊きたかったが、腹に納めて口を閉ざした。 「宗右衛門さん、私がどうかしましたか。ははあ、私と絹の素性を気にしてますね。  私の説明は後にして、絹に小袖を。  あれ、お喜代さんまで、絹の素性を気にしてるのですか」 「いえいえ、あたしゃ、そんな事はありませんよ。  ささっ、お上がり下さい。座敷に小袖を並べますので」  お喜代はお絹と森田を店の座敷に上げた。  店の座敷に正座しながら、お絹は森田を見つめて微笑んだ。その眼差しは、 『打ち合せどおり話しました、私の素性を話さずとも済みそうですね』  と語っていた。 (了)
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