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二 依頼主
男が目を覚した。
「てめえ、何をしやがるんだっ。生きて帰さねえぞっ」
畳に尻を着いたまま男が粋がった途端、瞬時に森田の左手が刀の鞘を握り、柄を掴んだ右手が刀を抜いて鋒が男の喉仏に触れた。石田から居合いを教授されている森田だ。
「むむむっ」
男は身動きできなくなった。
「さて、使いを寄こしてまで依頼したい事があるとは、いったい何だ。
あの世へ旅立つ前に聞かせてくれ」
森田は、石田から依頼事を聞いていたが、改めて訊き直し、刀をチョイと押した。鋒が男の喉仏の皮膚に食い込んだ。
「アッ、ああっ、石田さんのお仲間の・・・」
「如何にも、使いの者に名乗っておいた森田だ。
依頼事を聞かせてもらおうか。事と次第に寄っては、その首、この場で刎ねる。私を殺めんとしたその匕首が、動かぬ証だ。覚悟しておけっ」
森田はそう言って匕首を示した。
男は匕首に手を伸ばそうとしたが、刀の鋒が喉に当たり、身動きできない。
「さあ、話せ」
森田はさらに刀をチョイと押した。さらに鋒が男の喉仏の皮膚に食いこんだ。
「勘弁してくだせえ。刀をお納めくだせえ。全て話しますんで」
そう言われ、森田は刀を引いた。
「お喜代 。森田さんにお茶をお出しねえかっ」
「何言ってんだよ。はなっから、間夫なんかじゃないって言ってるだろうっ。
あたしの話をよく聞けば、こんな騒ぎにならなかったんだよ。
森田さん。羊羹は好きかえ。茶請けにどうだろうね」
先ほどまで青ざめていた喜代の顔に、血の気が戻った。
「おお、それは良いですね。是非、頂きます。
ところで依頼は何ですか」
森田は喜代に訊いた。
「いま此処であったような事ですよ」
此処は日本橋呉服町だ。表通の日本橋通りに面した日本橋呉服町二丁目と違い、大店のような派手さはないが、おちついた雰囲気の呉服屋が多く、古くからの馴染み客も多い。
ところが、近頃、買い物客に扮して大店の商家の旦那衆を誘って騙す女が現われた。筒持たせである
「不義密通をネタに銭金を強請る者が増えて、客が寄りつかなくなっちまった。儂らの商売が上がったりだ」
男がそう言った。
「ところで其方、使いが言っていた依頼主の呉服屋、有村屋宗右衛門か」
「ああ、そうだ。いろいろすまねえ事をしちまった。この店を切り盛りしてるんは、妹のお喜代だ。おらあ、用心棒みてえのもんさ」
宗右衛門は森田にペコリと頭を下げた。
「其方のような用心棒が居るなら、我らに依頼せずに済むだろう」
「そうは言っても、筒持たせを暴く手立てがねえもんでして」と宗右衛門。
「では、私がどうすれば良いか」
と森田は問いただした。
「筒持たせをやった女と無頼漢をとっ捕まえて、焼きを入れてやりてえですっ
一つ、智恵をお貸しくだせえっ」
宗右衛門は、これまでに強請られた得意先の者たちを話した。
被害者は所帯持ちが多い。家人の目を忍んで他所の女に手を出そうなどとは、不義密通をネタに銭金を強請る者たちと同罪だ。
「では、ひとつ嵌めるか」
森田はニタリと笑った。
「筒持たせをした女と無頼漢の調べはついているのか」
「へい。手下に探らせました。無頼漢の兼蔵と根岸の梅でして」
「住み家は根岸か」
「へい」
「兼蔵は博打好きか」
「へい。小梅の水戸徳川家下屋敷に出入りしているとか」
「其方の手下は筒持たせの件を知っているのだな」
「へい。店の者は、皆、知っております」
「では、無頼漢の兼蔵を嵌める策を説明する。
水戸徳川家下屋敷の賭場に行き、無頼漢の兼蔵を嵌めるのだ。
兼蔵に色目を使って筒持たせできる、肝が据わった女御は居るか」
「その役、あたしがやります。兄が森田さんにかけた迷惑の埋め合わせです」
宗右衛門の妹喜代がきっぱりと言った。
「おめえ、筒持たせだぞ。着物の裾をたくし上げて兼蔵に又をさらけ出して・・・」
「余計な事を言うんじゃないよ。肝の据わった女御なんかこの店に居ないわさ。
それとも、兄さんのこれを使うかえ」
喜代は屋宗右衛門に左手の小指を差しだした。
「お峯にゃあ、無理だ」
「あたしだね。その役っ」
「では、その役、喜代さんにお願いする。
暮れ六ツ半(午後七時)に小梅の水戸徳川家下屋敷につくようする。
宗右衛門。金子を用意しておけ。一両で良い」
「へいっ」
「文をしたためる。隅田村の石田さんに届けるのだ。
急ぎだ。足の早い、利発で、口の固い者を使いに出してくれ」
「わかりやした。頼りにしてる手代がいますんで」
宗右衛門が手代を呼びに行った。
森田は直ちに、無頼漢の兼蔵を嵌める策を文をしたため、宗右衛門が連れてきた手代に文を渡し、隅田村の石田光成に届けるように頼んだ。
「この文を、隅田村の白鬚社の番小屋の石田さんに届け、必ず返事を貰ってきてくれ。
石田さんが居らぬ場合は、出先を聞いて文を届け、必ず返事を貰ってくるのだ。
筒持たせの無頼漢と女を嵌める秘策だから、必ず返事を貰ってくるのだぞ」
「へい、わかりました。親方。あっしにも、ぜひ手伝わせてください」
「森田さん、如何なもんでしょう」
「名は何と言う」
「手代の辰次、すっ飛びの辰次と申しやす」
「わかった。急いで返事を貰ってきてくれ。その後、打ち合わせる」
「ガッテンです。行ってきます」
辰次は飛び出していった。
日本橋呉服町から白鬚社の番小屋まで往復約四里、徒歩でふた時の道のりだ。
すでに昼八ツ(午後二時)過ぎだ。
「喜代さん、夕餉を仕度しておいて下さい」
「わかりました」
喜代は座敷から出ていった。
夕七ツ半(午後五時)。
辰次は一時半足らずで戻った。
森田は、辰次から渡された石田光成の返事の文を読んで言った。
「喜代さん。夕餉を食しましょう」
「はい」
喜代が柏手を打つと奉公人が夕餉の膳を運んできた。
「辰次、其方も食しなさい」
森田は辰次をその場に留まらせ、夕餉の膳に着かせた。
「夕餉を食しながら聞いてくれ。
宗右衛門と辰次は兼蔵の左に座れ。喜代さんは兼蔵の右、その右に私が座る。
もう一度確認する。喜代さんも宗右衛門も辰次も、兼蔵に顔を知られていないな」
「へい、あっしらが見たのは根岸の梅だけでして。それも、客の旦那衆と話すのを見ただけで、梅の面を直には見ておりません」
「ならば、皆が兼蔵にあっても、兼蔵は皆を知らぬな」
「そういうことです」
宗右衛門と喜代と辰次が頷いている。
「ならば、夕餉を食して仕度しよう」
皆が夕餉を食った。
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