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華はひとりきりになった部屋で放り出された怒りを、なんの罪もない枕にぶつけていた。くそみそに殴って少し落ち着くとバッグからスマホを取り出した。
「亜澄!?」
彼の背後から下階で行われているパーティーのざわめきが届く。
「華さん、いったいどこにいるんですか」
「上で休んでるよ」
平然と答える。亜澄はそれですべてを察したらしい。ため息と共に呆れた声が返ってきた。
「まったく、誰といたんですか」
「深澤律」
「あー……同業者とのおつきあいは程々にしてください」
――お突き合いには至らなかったけどな!
「ごめん。それより今から部屋に来てくれる? PRISMのリップティントのアイデアが思い浮かんだんだ」
あんなに手こずったのに、嘘みたい降って下りてきた。そう、アイデアは突然、予告なしに降ってくるのだ。
「分かりました。挨拶が済んだら行きます」
1時間後、部屋のチャイムが鳴った。ドアを開けるとシルバーのスーツの華やかな男がいた。
「お待たせしました」
「もー待ちくたびれた!」
「すみません、元同僚に捕まってしまって」
グラスを片手に亜澄を迎え入れる。SHIN/ADの亜澄夏。華は肩書こそCTOだが、営業面はほとんど亜澄に任せている。華の右腕だ。
「ずいぶんと足元が危ういのはそれのせいですか」
「タバコ切れたからついつい飲んじゃった」
「ほとんどないじゃないですか」
持ち上げたシャンパンボトルはずいぶん軽かろう。深澤律のせいで飲まなければやっていられずシャンパンをガバガバ飲んでいた。
「うん。だからもう一本追加しようと思って。亜澄も飲む?」
「では、少しだけ」
追加のオーダーをし、華がベッドに腰掛けると亜澄も隣のベッドに腰を下ろした。向かい合う格好になると仕事の話を始める。
「【Love is the Strongest】――?」
亜澄の反応は薄い。英語だし、華の思った通りの反応だった。
まず、広告づくりはコンセプト設計から始まる。中にはビジュアルイメージありきで始まるものもあるが、基本的にはコンセプトを土台としてあれこれと積み重ねていく。
広告制作は分業制だ。コンセプトを考え、チームを編成、まとめるのがクリエイティブディレクター。サッカーや野球でいうところの監督だ。
その下に各ポジションのプロたちがいる。デザインをするのはアートディレクターかグラフィックデザイナー。コピーを作るのはコピーライター。写真を撮るのはフォトグラファー。さらにCMを作る場合はCMディレクター、CMプランナー、CMプロデューサーなどが入ってくる。
規模や予算によってチーム構成は変わる。
華はクリエイティブディレクターでもありアートディレクターでもあるため、コピーを自分で生み出し、自分でコンセプトを決め、自分でデザインをする場合も多々ある。今回もそうだ。
「この英文はおしゃれな『かざり』で、『おさえ』コピーの方が実は本命なんだ」
次いでスマホでさっと描いたイメージを見せた。普段は色鉛筆でラフを描くが今日は持っていないのでしかたなく指先で描いた。
「ほう」
目を凝らして見ていた亜澄から『これで決まりだ』と言わんばかりの確信めいた声が戻って来て華はにやりと笑う。亜澄が見ている絵を文章化するとこんなところだ。
【雨降る夜の街】
【傘をさしているモデルの正面アップ ほんの少しだけ上目遣い アンニュイな表情】
【『Love is the Strongest』のキャッチ 限りなく力が入っていない手書きの筆記体】
【『キスには勝てないリップティント』のサブキャッチと商品ロゴ】
【テクスチャとリップ本体の画像】
【ハッピーエンドにもアンハッピーエンドにも見える全体の雰囲気】
「そうきましたか。インパクトがありますね」
亜澄はこのアイデアの最大のポイントに気づいてくれたらしい。口頭で改めて説明する。
「他社は『どれだけこすっても落ちない』とか『ハンバーガーを食べても落ちない』とか長持ちすることをひたすら強く打ち出してる」
「そうですね」
「ティントだからもちろん落ちにくい。でも永遠に落ちないわけじゃないし落ちる場面も多々ある。だから落ちないことの表現に力を入れすぎるとどんどん大げさになって、ホントかよって疑わしくなる」
そういう強いコピーはすでに多く出回っているし、今後も出回る。リップティントが落ちないのはもはや当たり前であって、そこを必死にプッシュしても新鮮味がない。
だから視点を少し変えて、受け手の心におやと引っかかるコピーが必要だった。それが『キスには勝てない』の部分だ。
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