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1.沈黙の貴公子
柊の恋人である聖の高校時代のあだ名は「沈黙の貴公子」だった。
聖とは、幼馴染同士である。今は、恋人同士。大学も一緒で、学部は違う。飛行機でなければ帰省も難しい遠方からの進学ということもあり、ふたりでルームシェアをして暮らしている。
いやまあ、ルームシェアというか、同棲、なのだが。
そこまで考えて柊は頬を緩める。
聖との暮らしは、控えめに言って最高だった。いつでも好きな人が傍にいてくれる生活というものは、厄介な教授の講義や、人手不足でブラックすぎるバイト先で弱った心を、確実に癒してくれる。聖が気の利いた言葉で慰めてくれるわけではない。なんといっても「沈黙の貴公子」なんてあだ名をつけられてしまうような彼だ。口数は柊と比べても圧倒的に少ない。
それでも、疲れ切って帰ってきた自分を、おかえり、と言って迎え、その華奢な腕で抱きしめてくれれば、ほかにはなにもいらない、と思える。
料理だって洗濯だって掃除だって、聖はできないけれど、そんなこと問題ではない。
彼の存在そのものが柊の癒しなのだ。それは確かだ。
だから、彼に不満なんてない。いや、なかった。なかったのだ。
しかし、最近、柊は聖のとある行動が気になって仕方なくなっている。
それは。
「次、俺、お風呂、入るね」
ささやかな笑みを零し、聖が風呂場へ向かう。ぱたり、と閉ざされた扉。流れる水音。
なんの変哲もない、愛しい生活音。
柊が気になって仕方ないものとは、風呂場から聴こえてくる聖のとある声だった。
声が形作っているのは、ひとつの、メロディ。
ごくごく小さな声だ。水音に紛れて音の尻尾がかろうじて見える程度の微量の音だ。
その音、いいや、声がどんな旋律を奏でているのかまでは判別できない。わかっているのは、その声が聖のものであるということ、どうやら音階らしきものであるということの二点だけだ。
たかが鼻歌、だ。
だが、その鼻歌を歌っているのは、聖だ。
あの聖が、鼻歌を歌っている。
あの沈黙の貴公子が。
聖はとにかく寡黙だ。音楽を聴くのは好きなようだが、歌うことはしない。一度、ゼミの付き合いでカラオケに連れていかれたこともあったものの、一音も発しないまま、カラオケルームを後にした。この一音には、会話も含まれる。まあ、それも無理はないことかもしれない。聖はもともと、声を出すこと、話しをすることが好きではない。中学時代、顔目当てで告白をされ、その告白を断ったときの台詞が曲解されたことに端を発しているのだが、聖は自分が口を開くとろくなことにならないと思い込んでいる節があるのだ。
そんなことはない、と柊は聖に何度も言い聞かせたものだが、その柊の努力もむなしく、聖はその美しい顔に気だるげな笑みを浮かべて華麗に言い捨てた。
「別にいい。どうだって。柊がわかってくれていればそれで充分」
普段は黙してばかりなのに、意識せず殺し文句をさらっと言う恋人に、柊は骨抜きである。
その聖が、である。鼻歌を歌っている。
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