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3.シャトルラン
聖がなんの曲を歌っているのか、まったくつかめぬまま、数日が経った。
そしてその数日の間にも、聖は風呂場で鼻歌を歌い続けている。
超小声で。
もういっそ、なんの曲歌ってるの? とストレートに訊いたらいいんじゃないか? とも思う。思うが、それもどうなんだろう。小声なのは聴かれたくないからなんだろうし、聖の性格だと聴かれていたと知ったら、かなり凹みそうな気もする。
これはもう、気にせず、触れないのが一番なのかもしれない。そう思っていた矢先だった。
六月のある日。その日、柊はバイトがかなり長引き、柊の待つ家に帰りついたのは、深夜だった。
食事は適当に済ませるように連絡はしたからきっと問題ないだろうが、聖はああ見えて寂しがり屋なところもある。久しぶりのひとりでの夕食に、へそを曲げているかもしれない。
慌ててアパートの外階段を上り、玄関ドアを開けたときだった。
かすかな旋律が耳をなぞった。
それは、聖の声。
いつも風呂場からひっそり響いてくる、聖の歌声だった。
♪ドレミファソラシド
ドシラソファミレド♪
まず、固まった。
聖はドアが開いたことに気付いていないのか、小さな声でまだ口ずさみ続けている。
♪ドレミファソラシド
ドシラソファミレド♪
♪ドレミファソラシド
ドシラソファミレド♪
繰り返し、繰り返し流れて来る、ドレミ。
だが、そこで気づいた。少しずつ、少しずつ、ピッチが速くなっていることに。
なんなんだろう。なんなんだ?
疑問符を盛大に飛ばしながら耳をそばだてていて、思い出した。
これと同じものを、ここ数日、よく耳にしていたことを。
それは、アパートのすぐ隣にある小学校の体育館から漏れてきた……。
そうだ、あれだ。音階に合わせて目標線に向かって走る。線についたら方向転換し、走ってきたほうへと戻る。これをひたすら繰り返す持久力測定。
「シャトルランじゃん」
思わず声に出したとたん、聖の声が止まった。しまった、と口を押さえるがもう遅い。
「おかえ、り」
ソファーに寝そべって音階を口ずさんでいた彼が、赤い顔でこちらを見た。
「あ、ええと……うん、ただいま」
ただいま、の後、声が続かない。どうしよう、と悩んでいると、頬を染めていた聖が、ちらり、と上目遣いにこちらを見上げてきた。
「き、聴いてた、よね」
「あー……うん、まあ、はい」
ここ数日、それ何?と訊きたいと思っていたことまでは言わないでおくことにした。
「そっ……か」
それっきり、再び黙ってしまう。つるりとした白玉のような色合いの頬が、ほのかな赤に染まっているのが新鮮で、まじまじと見つめていると、ぼそぼそと聖が言った。
「その……変なもの、聞かせて、ごめん」
「あ、いや、聞かせてっていうか」
聴きたかったんだ。
と、言ってしまおうか。迷いつつも、さすがにそれは恥ずかしいか、と思い直し、別のことを口にする。
「変なものじゃないよ。聖の歌声だから」
そう言ったとたん、うわ、これも充分恥ずかしい案件じゃん! と気づいた。ちらり、と聖を窺うと、彼は真っ赤になって俯いてしまっている。
やらかしたあ、と肩を落としたとき、あのね、と聖が口を開いた。
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