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◇ ◇ ◇
最後の公演となる文化祭のステージを終え、上級生が引退した後、部長に抜擢されたのは珠季だった。
小さい頃から地域の合唱サークルで活動し、大学で声楽を学ぶ姉を持つという珠季の歌声は抜群で、二年生にも関わらず重要なパートを任される事も多かったから、彼女が部長になるのは必然だった。
ただ想定外だったのは――
「副部長は永野優香さんにお願いしたいと思います」
珠季が私を副部長に指名した事だ。私は驚きで声も出なかった。
「今年こそ、全国を目指すから。厳しくやっていくつもり。だからこそ、みんなには優香みたいな人がいてくれた方がいいと思う」
珠季の言う意味は、すぐに明らかになった。
「全国に行くためには、基礎からやり直さないと!」
次の課題曲は何だろう。自由曲はどうしようかなどと浮ついていた私達に冷水を浴びせ掛けるように、珠季は徹底して基礎を押し付けた。
支部大会で上位入賞するチームとは、一人一人の声量が違う。技量が違う。まずは一人一人の能力を高めなければ、先輩達を上回るような成果を上げる事はできないというのが、珠季の持論だった。
来る日も来る日も、発声練習を中心とした地味な練習ばかりが続いた。
「違う! 半音ズレてる! ちゃんとピアノの音を聞いて! 誤魔化しちゃ駄目! ファーはこの音、わかる? ファー!」
「もっとおへそを意識して! 腹式呼吸! お腹の底から大きく息を吐くように!」
それまでも発声練習やコンコーネを行う事はあったが、あくまで練習前の準備運動的な扱いだったから、私達は面食らうばかりだった。
コンコーネの音程を上手く取れない下級生が、泣きべそを掻きながら何度も何度もやり直させられる事もあった。
程無くして、私のもとに部員達から不満の声が届くようになった。それこそが、珠季が私に期待した役割だったのだと思う。
飴と鞭があるのだとすれば、珠季が鞭で私が飴。徹底した厳しさを見せる珠季に対し、彼らの拠り所として私を副部長のポストに置いたのだ。
そんな私に対し、美桜は何かと不満をぶつけてくるようになった。涙を流す下級生を連れ、怒りに震える同級生を伴い、私に珠季を説得するよう求めた。
「ちょっと勘違いしてるんじゃない? お姉ちゃんから教わったんだかなんだか知らないけど、もっとみんなの意見も聞きながらやるべきだと思う。珠季がやってるのは、ただの私物化だよ」
そんな声が次第に高まりつつあるのを看過する事はできなかった。だから私は、珠季にもちゃんと伝えた。しかし、
「優香だって、先輩達が悔しがってる姿見たでしょ? そう言ってダラけて、最後に泣くのは自分達なんだよ。私はみんなに、後悔させたくない」
珠季は頑として手を緩める様子はなかった。
確かに珠季の練習を通して、私達にはまだまだ足りない部分が沢山ある事もわかった。基礎が大事という考えも理解はできる。一方で、毎日の部活動が練習というよりは訓練のようで、ただただ辛さばかりが増しているようにも感じられた。
実際に、部活に出て来なくなる部員もちらほらと現れ始めた。
「みんな歌うのが好きで合唱部に入ったんだよ。コンクールで勝つ事も大事だけど、それだけが目的みたいになるのは違うと思う。楽しくやりながら、強くなる方法だってあるはず。先輩達だって、そうやってきたんだし」
珠季への反発が強まるのに反比例して、美桜の言葉が説得力を持つようになった。珠季の考えも間違ってはいないと思う反面、みんなの共感を集める美桜の意見も無視できなくなっていった。
「珠季は歌う楽しさを忘れてるんだと思う。一回さ、思い出させるしかないよ」
きっかけは、美桜の発案だった。
「それじゃあ、今日も腹式呼吸の練習から……」
「ねえねえみんな、今日は久しぶりに、学園祭で歌った曲でも歌ってみない?」
いつも通り練習を始めようとした珠季を遮るように、美桜が言った。途端、事前の打ち合わせ通り、集まった部員達は小躍りして歓声を上げた。
「そんな、勝手に……」
「友理奈は伴奏できたよね? 優香、指揮してよ。せっかくだから歌いたいパートを歌う事にして、アルトは右に、ソプラノは左に分かれてもらって……」
困惑する珠季には目もくれず、部員達はわいわいと準備を進め、やがて音楽室の中に歌声が響き始めた。久しぶりに自由に歌う事を許された、喜びに溢れる歌だった。
――私はただ、珠季に知って欲しいだけだった。
みんな歌うのが好きで、歌うために合唱部に入ったという事を。
こんなにも楽しそうに歌う部員達を見て、少しは譲歩してくれるのを期待しただけだった。
終わった後にはちゃんと珠季に説明して、理解してもらうつもりだった。
でも――演奏が終わり振り返った時には、珠季の姿はもうどこにもなかった。
それっきり……珠季は合唱部から去ってしまったのだ。
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