手を伸ばしたら、それに触れた

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「藤代ー。久し振りー」  三月に入って最初の土曜日の夜、約一か月ぶりに会った茂は、そうやっていつものように笑っていた。  駅の雑踏の中、それでもそこだけが目に飛び込んでくるような、目に快い茂の姿。  茂の業界は、ちょうど今が繁忙期らしい。前回会った時に「2週間くらいは忙しいかも」と言われていたが、結局、3回分の週末を会わずに過ごした。 「久し振り。ちょっとは落ち着いた?」  高志がそう聞くと、茂は苦笑して首を横に振る。 「全然。ていうかさ、本当は明日も休日出勤するはずだったんだけど、届いてるはずの資料が取引先からまだ届いてなくてさ。だから急遽休みになったけど、その分は来週以降にずれ込むだけなんだよな結局」  そのおかげで今日会えたのならその取引先に感謝したいところだが、茂にとっては大変なことだろうから、口に出すのはやめておいた。 「にしても、日曜日まで出勤だなんて大変だな」 「いや、俺の場合はほら、土曜は専門学校だろ。だから特別に日曜に出勤させてもらってるんだよね」  ということは、土曜日は一日中勉強して、日曜日には休日出勤して、それでまた月曜日から普通に出勤ということか。  週末に茂と会うのは、大抵は土曜の夜、茂の学校が終わった後になる。駅で待ち合わせして、周辺の繁華街で夕食を取って、時間が許せばそのまま高志の部屋に行く。 「まあ、日曜出勤も悪くないよ。事務所に一人っていうのも結構気が楽。電話も鳴らないし、何となく非日常な雰囲気で、意外にいい感じ」  高志の会社は定時に上がれることは稀だが、休日出勤は殆どない。繁忙期に限るとはいえ、話に聞くだけで大変そうだ。 「無理すんなよ」  ついそう言って、我ながらつまらない声掛けだと思った。無理があるとしても、やらない選択肢は茂にはないのだから。 「ん-、でもさー……もし試験が駄目だったら、またもう一年同じ状況が続くだろ。今みたいに毎日毎日仕事と勉強しかしてないのがもう一年ってさ、考えただけで気が重くなるからさ。やっぱ絶対に受かりたいし、てことは今は頑張るしかないんだよなー」 「……なるほど」  歩いていると、やがて飲食店の立ち並ぶ通りに出た。いつも大体この辺で食事をする。特に決まった店はなく、その日の気分で決めることが多い。 「何食いたい?」  そう聞いてみる。今日は茂の食べたいものにしよう。 「んー……お前は?」 「何でもいい」  高志がそう言うと決まらない。何故なら茂は基本的にいつでもさりげなく高志に合わせようとするからだ。だから高志は高志で、毎回、候補を複数挙げてみせ、その中から茂の気分を探るようにしていた。 「やっぱ肉?」  あくまで茂は高志の好みに合わせてくる。 「お前の食いたいものにしよう」 「えー? 俺は別に何でも……」 「もうしばらく忙しいんだろ。好きなもの食って、あとちょっと頑張れ」  そう言うと、さすがに茂も、高志に決めさせようとするのはやめたようだ。考えるように少し黙ったので、高志は「奢る」と付け足した。 「え? いや、それはいいよ」 「じゃあ割り勘で」  すぐに翻すと、茂は苦笑する。撤回したのは、高志が払うと言えば茂は値段だけを見て決めそうだと思ったからだ。別に今宣言しておかなくても、最後に払ってしまえばいい。 ――金を出すだなんて、簡単なことだけど。自分が応援した気になるだけで、本当には茂の役になんて立てない、ただの自己満足だけど。 「ちなみに、これは気分じゃないとかは?」 「ないよ。お前の好きなのでいい」 「……ほんとに何でもいい?」 「うん」  そう答えると、茂は少し黙った後に立ち止まった。 「――じゃあ、何か弁当」 「弁当?」  茂は高志を見上げて頷いた後、踵を返す。高志も茂に従って方向転換した。来た道を引き返し始める。 「そっち?」 「……お前んちで食べたい」 「ああ」  茂の意図を理解して、高志は周辺の店舗を思い浮かべた。何を食べたいかより、どこで食べたいかの方が重要なのだろう。この辺だと、少し歩いたところにチェーンの弁当屋がある。あとはファストフードか牛丼のテイクアウトも可能だ。あるいはスーパーに寄って総菜コーナーで購入するか。  そこでふと思い付いて、「じゃあスーパーでいいか?」と聞いてみる。茂は頓着する様子もなく頷いた。
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