手を伸ばしたら、それに触れた

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「――兄ちゃんの名前、育実っていうんだけど。育てる、実、でイクミ」  食事の終盤、それぞれ2本目のアルコールに手が出たくらいのタイミングで、茂が話し出した。 「子供の頃から羨ましかったんだよね」 「羨ましい?」 「うん。何か今どきって言うかさ。二人とも名前はじいちゃんが考えたらしいんだけどさ。農家だから、そういう名前だろ」  育実と茂。そう言われてみれば、植物の成長に関わる名前だ。 「自分の名前、あんまり好きじゃないんだよなー。じいちゃんには悪いけど」 「そうなのか」 「うん。何か、濁点が入ってるのが嫌」 「……普通にいい名前だと思うけど」  正確に言えば、良いとも悪いとも考えたことすらなかった。茂は茂だ。 「お前は自分の名前、好き?」 「え、いや、好きとも嫌いとも……そういうもんだとしか」 「お前の名前はいい名前だよ」  妙に断定的に言い切る。ことここに至って、ようやく高志は茂が若干酔っぱらっていることに気付いた。 「高い志、で、高志だろ。めちゃいいじゃん。お父さんがつけたの?」 「さあ、知らないけど」  適当に返しながら、そう言えば飲むのは久し振りだって言ってたな、などと、頭の中では別のことを考える。 「ちなみに妹さんは何て名前?」 「綾」 「どんな字?」 「糸へんの、よくある『綾』」 「へえ、いいな。いい名前だな。お前の親は名付けのセンスがいいな」  茂はしきりにそう言うが、『綾』と『茂』の違いがよく分からない。両方とも同じくらいポピュラーな名前だと思う。  茂はまた一口ビールを飲んだ後、デザートのいちごに手を付けた。 「……最近、果物って食べた?」  高志は少々強引に話題を変えてみた。茂は戸惑う風でもなく頷く。 「たまに実家から送ってくるから、そういう時は食べる」 「そっか。農家だもんな」 「この前はみかん一箱送ってきてさ、一人じゃ食べきれないから職場で配った」 「へえ」 「ごめん、ちょうどお前と会う予定のない頃でさ。会えたらお前にも渡したんだけど」 「いいよ別に、気にしなくて」  茂の話からは、彼女の気配は感じられなかった。それが少し嬉しい。高志の少し緩んだ表情を見ながら、茂は唐突に話を元に戻した。 「お前はさ、名前までかっこいいよな」 「は? ……までって何だよ」 「本体はもちろんかっこいいけど、ってこと」  高志が答えずにいると、茂もそれ以上は何も言わず、またいちごを口に運ぶ。気に入ったのだろうか。買って良かったかもしれない。  茂はこうやって高志を買い被っているところがある。大学の頃からずっとそうだ。実際の自分とは違うことを言われるので訂正しようとしても、更に褒め言葉を浴びせられるだけなので、最近ではどう反応していいのか分からなくなっている。ただ居心地が悪い。  『お前はかっこいい』。『お前は優しい』。……全然違うのに。 「――あのさ」  結局、もう一度話題を変えることにした。茂も「ん?」と相槌を打ってくる。 「大学の時……」  言いかけて、少し逡巡する。そして別の方向から切り出すことにした。 「前に言ってただろ。俺が女の子に優しくするんだろうって。そんで自分にもそうしてほしいって」 「うん」 「そしたらさ。……大学の時は、どう思ってた?」 「え? どうって?」 「俺と、やった時」  茂が望むようには優しくできなかった頃。何の気遣いもなく腰を動かしながら、悪意をぶつけた記憶。  高志が優しい人間なんかではないことを、茂はその身で実感しているはずだ。 「大学時代にやった時ってこと?」 「そう」  そして「……二回目とか」と付け加えると、茂はひとつ瞬きした。 「二回目? 限定的だな」 「別に他の時でもいいけど」  ずっと聞きたくて聞けなかったことだった。あの頃、特に体を重ね始めた頃、高志には茂が何を考えているのか分からなかったし、お互いに自分の考えを伝えることもなかった。付き合い始めてからも、やっぱりあの頃について話したことはない。そういう暗黙の了解が二人にはあった。  けれど今日、茂が少し酔っているのも、高志の背中を押した。 「んー、そうだなー」  茂は少し言葉を探す。いつものようにはぐらかしたりする気はなさそうだ。 「あれだよ。ちょっと言いにくいんだけど」 「……いいよ」  高志が頷くと、茂は明るい調子で答えた。 「お前って性欲強いのかな、とか考えてたかな」 「え? ……性欲?」 「うん。お前って普通に女の子と付き合ってたし、ゲイでもないのに、俺ともがっつりできてたからさー。それに筋肉質だし、男性ホルモン多そうだし」 「……」 「でも性欲って言うと語弊があるか。いつでもやりたがってるとかそういう意味じゃなくてさ。うーん、耐性があるっていうか、どんな状況でもある程度できるっていうか、そういう能力が高いのかなって」  AV男優とかそんな感じじゃん? と、茂はまたいちごを口に入れた。一人でもう半分くらい食べている。その手元をじっと見ていた高志に気付き、茂はいちごをもうひとつ手に取ると、身を乗り出して高志の口元に差し出してきた。反射的に仰け反り、代わりに手で受け取ると、茂が苦笑する。 「自分ではどう思う? 他の人より強いと思う?」 「……他人の性欲のレベルなんか知るか」  自分の欲しかった答えと違う。けれどそれ以上聞き直すこともできなかった。 「男性ホルモン多いと禿げるっていうから気を付けろよー」 「禿げない」  茂の揶揄うような声に、反射的に返す。 「はは。ちなみにお父さんは? 大丈夫?」  問われて自動的に父親の姿が思い浮かぶ。見て分かるほど禿げてはいない、はずだ。……けれどそう言えば、洗面所に育毛剤のようなものが置いてあったかもしれない。  考え込んだまま答えない高志の様子をどう思ったのか、少しの沈黙ののちに茂が口を開いた。さっきまでの揶揄いの調子はなくなり、いつもの穏やかな口調だ。 「大丈夫だよ。もし禿げても、お前はずっとかっこいいよ」
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