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焦らず、丁寧に
ペンを持つ手が震える。今までこれ程緊張したことなどない。
ずっと、ただただ楽しいだけだった。けれど、これが仕事をするということなんだ。
「ふう、」
一度大きく深呼吸をして心を落ち着かせる。
触れたことのないような高級な生地に薄く、丁寧に下書きをしていく。
スカート部分をシワにならないように真っ直ぐ広げ、ゆっくり、少しずつ模様になるところを書き込む。デザイン画では書けない、プリーツの内側部分も着た時にバランスよくなるように刺繍をいれなければいけない。
この作業が一番大事だ。下書きがずれてしまえば全てが台無しになる。
「セレーナさん、少し肩の力を抜いて」
いつの間にかヴァイオレット様が私の顔を覗き込んでいた。
この部屋はヴァイオレット様の部屋ではなく作業用に用意してもらった部屋だ。人が入ってきたことにも気がつかないほど集中していた。
ヴァイオレット様がハンカチを差し出してくる。
額には汗が滲んでいた。
「すみません、ありがとうございます」
ドレスに汗を落としてもいけない。
ハンカチを受け取り、汗を拭う。
「少し、休憩しない?」
「ですがまだお昼にもなっていませんし」
「式典まではまだ時間があるし、ゆっくり進めてもらえればいいの」
「はい」
焦って作業してもいい仕事はできない。私はお言葉に甘えて休憩することにした。
ヴァイオレット様の部屋に行くと既にお茶の用意がされている。
「座って」
「はい。失礼します」
私はソファーに座り、目の前に置かれたティーカップとマドレーヌを見る。芳醇なお茶の香りと甘いマドレーヌの香りが食欲を掻き立ててくる。
「そのマドレーヌ焼きたてなの。美味しいからセレーナさんに食べてもらいたくて」
「ありがとうございます。頂きます」
マドレーヌを手に取り一口頬張る。
「んー! とっても美味しいです!」
「良かった」
バターの濃厚な風味と砂糖の甘み、ほのかなレモンの香りが絶妙なバランスで自然と顔が緩んでいく。
「こんなに美味しいお菓子はじめて食べました」
「そう? まぁアレンも料理はするけどスイーツは作らないものね」
「ヴァイオレット様もアレン様のお料理食べていたのですか?」
「アレンに料理を教えたのは私なのよ」
「そうだったのですか?」
お母様が亡くなったのはまだアレン様が幼い頃だったらしい。
ヴァイオレット様はあまり母親を覚えていないアレン様のために手料理を作ってあげた。かつてお母様が自分たちに作ってくれていたように。アレン様が大きくなると次第に一緒に料理をするようになり、母の味を教えたのだそうだ。
「今となってはもうアレンの方が料理は上手だし、なんだか凝ったものも作ってるみたいだしね」
「はい。毎日とても美味しいお料理を作って頂いていています」
「アレンはセレーナさんの胃袋を掴んでいるのね」
「確かに胃袋は掴まれているかもしれません」
そんな冗談を言えるまでに緊張は解れていた。
ヴァイオレット様との穏やかな会話と美味しいお茶菓子で気持ちに余裕が生まれたのかその後の作業は落ち着いてスムーズに進めることが出来た。といってもまだ下書きが半分終わった程度だが。
でも、式典までは時間がある。焦らず、丁寧に仕上げよう。
作業を始めたばかりの時の自分を反省し、今日の仕事を終えた。
ーーーーーーーーーー
その日の夜は久しぶりに屋敷のカーテンの刺繍をしていた。
ヴァイオレット様のドレスは王宮の外に持ち出すことは出来ないためここで作業することはできない。
夕食後、寝るまで時間があったのでカーテンの刺繍を少しでも進めようと思った。
「セレーナ、別に無理してしなくていいんだぞ」
「無理なんてしていませんよ」
オオカミの姿のライアン様がソファーの上で寝転び、私のことをじっと見ている。
「どうかされましたか?」
「なんでもない」
「そうですか? もしお疲れのようでしたら私のことは気にせず地下で休んでくださいね」
「いや。ここがいい」
ライアン様は何をするわけでもなくただ私の横にいた。
私も特に話をすることなく黙々とを作業していたが、しばらくそうしているとライアン様が突然「オオカミ」と呟いた。
「オオカミ? がどうかされましたか?」
「セレーナが知ってる、オオカミってやつのことが聞きたい」
初めて会った時もライアン様はオオカミのことを気にしていた。
「私が知っているのは本の中だけのオオカミですがそれでもいいですか?」
「ああ」
ライアン様は少し体を起こし私の方を向く。真剣なその瞳に私は手を止めカーテンを横に置いた。
「オオカミはその見た目もあって狂暴で恐ろしいというイメージもあります。もちろん実際に強いです。ですか本当は穏やかで優しく忠誠心のある動物なのです」
「穏やかで優しくで忠誠心?」
「はい、もちろん個体差はあると思いますよ? でも私が見た本にはそう書いてありました。出会ったことはないので私にもよくわかりませんが」
「俺のこの姿を見て恐くなかったのか?」
恐い、というよりも驚きのほうが大きかった。そしてあっという間に人間の姿になったのだからそれどころではなかった。
「私はそれよりライアン様のありのままの姿にパニックになってしまいましたよ」
「それは悪かったよ」
冗談めかして言った私に、本当に申し訳なさそうにするライアン様がなんだか可愛かった。
「恐いのは姿、形ではなくその中の本質だと思います。逆に言うと、どんなに見た目が温厚そうであっても悪意や敵意を向けてくるものに対しては恐いと感じます」
「そうか」
ライアン様は首を伸ばすように私の膝に顔を乗せる。
撫でて欲しい時の仕草だ。私は耳の後ろから頭、首までゆっくりともふもふしながら撫でる。
「皆さんはとても優しい方たちです。どんな姿でも恐くはありませんよ」
「ありがとう。本当、お前はすごいよ」
そう言い膝の上で目を瞑るライアン様を暫く撫でてから私はまた作業を再開した。
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