春の幻影

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 夕刻。  あかねの家に瑠璃が来た。  瑠璃が一人であかねの家を訪ねるのは初めてのことだった。 「なあに、どうしたの?」 「あのね……」  蕾のような小さな唇をきゅっと噛む瑠璃を見て、あかねは袖から手ぬぐいを出した。 「泣いてるの? 拭きなさい」  そう言いながらあかねは瑠璃の目元を拭ってやる。 「あかねちゃん、瑠璃とたくさん遊んでくれてありがとう」 「別に今更そんなこと……、お礼なんて改めて言わないでよ。まるで――」  あかねはその先を言えなかった。 「瑠璃ね、遠くに行くことになったんだ」 「え……。いつ?」 「今日」  それはあかねにとって青天の霹靂だった。 「え?」 「お花つみも一緒に行けなくてごめんね」 「そんなの……」  あかねの鼻の奥がつんと痛みを発する。 「楽しかったよ。鞠つき教えてくれてありがとう」 「百回できるようになったら手紙で教えてくれるんでしょ?」  瑠璃は是と言わず、閉じた唇をわななかせた。 「文字が書けないなんて言わないでよ。あんな難しい漢字だって読めるんだから。わたしも手紙書くから……」  あかねの視界がにじむ。その歪んで見える向こうに立つ瑠璃は首を横に振った。手紙はどこにも届かないとでも言うように。 「ありがとう、あかねちゃん。お花つみ行けなくてごめんね」  「また遊びに来たらいいわよ。そうしたら、今度こそ一緒に行きましょう?」  どうしても瑠璃を繋ぎとめたくて、あかねは言葉を重ねる。  本当は手を掴んででも引き止めたかった。せっかく仲良くなれたのに。妹ができたようで嬉しかったのに。  毎日楽しかったのは、あかねも同じだ。  しかし瑠璃は綺麗な涙を頬に輝かせたまま、遠くへと行ってしまった。  後日、あかねは青葉に行方を尋ねてみた。だが青葉は一貫して「遠くに行った」としか答えてくれなかった。  当然、手紙は出せなかった。  ただ、「瑠璃へ」と書いた紙だけが貯まっている。  来た時と同様に、急に現れて、急にいなくなる。  春の幻影でも見ていたかのようだとあかねは空を見上げた。  この青空の下、どこかで瑠璃が笑っていると信じて、あかねは涙をひとすじこぼすのだった。 〈了〉
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