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 御徒亮輔(おかちりょうすけ)氏の『本朝逸事奇談の検証』によると、マリー・アントワネットは、羅城門(らじょうもん)へ逃げてきた若侍の前に現れて、その「豊満で艶美な肉体を、だらしなく着崩した服で強調し、男を誘惑」したというが、そのときの口説き文句というのが、「その女が駄目なら、私を食べればいいでしょう」(同)というものだったらしい。おそらく、若侍から事の一部始終を聞き出したのだと思われる。  しかし、お互いの言葉を、どうして理解しえたのかについては判然としない。通訳者を連れていたのではないかという説(大菊加奈多(おおきくかなた)「平安期における異国語の使用」『琥珀紋学院大学文学部紀要』18巻に収録)や、短い滞在ながら本朝の言葉を流暢(りゅうちょう)に使えるようになっていたのではないかという説(久地木蓮太郎(くちきれんたろう)『平安期の奇談に関する研究』)が提起されてきたが、いまはそのことを問題にしないでおこう。  とにかく或る記録によると「まりい・あんとわねとは幾らか悪意のある微笑を(たた)へて、男の胸元に真珠のような爪を立てた」というのだから、若侍を籠絡(ろうらく)しにかかろうとしたのは確かである。  そして「男は口籠(くちご)もり首を縦にも横にも振るに(あた)わず、まりい・あんとわねとの眼を見つめたまま石の()のように固ま」り、「見かねた彼女の口づけを受けると、尻を叩かれた馬のように雄々しく猛り始め」たという。  しかし、記録のいくつかの箇所(かしょ)は、墨で塗りつぶされており、判読ができなくなっている。おそらく、何者かによる検閲を受けるほどの、あからさまな性描写があったのだと推測される。  ひとつ拾い上げてみると、「羅城門の階段の上から事の次第を覗いていた盗人曰く、××××××××××××××吹き出た×××を××××××××夜目にも分かるほどの笑い声を上げると、××××××を××して、男を××××へ導く」(墨塗のため文字数は推定である)といった具合である。  そのため、ふたりの営みの仔細(しさい)については分からないところが多いが、それでも、若侍が「まりい・あんとわねと」の身体を味わったのは事実であろう。しかし記録によると、「検非違使(けびいし)に男は捕縛され」たとあるから、おおよそ果てて寝ていたか放心していたところを、縄にかけられたのだと推察される。  そして同記録によると、「その時にまりい・あんとわねとの姿はなく」とあるから、営みの主導権は常に彼女にあり、彼の(せい)を吸い切ってしまうと、夜闇のなかへ去っていったのだと思われる。  ともかく若侍は、羅城門の下で朱雀大路の方を頭にして卒倒していた。この大通りを吹き抜けていく風は、雅やかに奏して、遠くから迫ってくる検非違使の持つ松明(たいまつ)の火をゆらゆらと揺らしていた。  月は羅城門の鴟尾(しび)の向こうへ隠れて、男を包み込む闇は、冥府(めいふ)かどこかへ繋がっていそうな、なんとも薄気味の悪い静けさを(うち)に秘めていた。そんな中、男の揉烏帽子(もみえぼし)だけは、風に運ばれて(すすき)のなかへと消えてしまった。  〈了〉
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