ミルクティー・ホリデー

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ミルクティー・ホリデー

秋良(あきら)様はどこかに出かけたかったですか」  座り心地のいいソファに腰掛けている美央は、隣に座っている秋良を見やった。  レースのカーテン越しに室内に入ってくる日差しは暖かく、外は風もないようなので気持ちよく外出ができるだろう。 「いや……疲れててあまり頭が回らなくてな。わからん」 「お忙しそうですもんね」 「ああ、だからお前が癒してくれ」  秋良はそう言うと、美央の膝にくたりと頭を乗せて身体の力を抜いた。  ちょうど去年の今頃も、仕事が忙しくなって疲労が溜まっていた秋良がそうして膝枕をしてきたことがあった。あの時はまだお互いの気持ちを知らなかったので、美央は心を穏やかにできなかった。しかし気持ちの通じ合った今なら、とても安らかな気持ちで秋良を甘やかすことができる。美央は髪の毛の根元をかき分けるようにやさしく秋良の頭をなでた。  この国でも有数の高身分の家柄である天蔵家の跡取り息子、天蔵(あまくら)・フィリップ・秋良。父母ともにいなくなって天涯孤独になった高校二年生の美央は彼の屋敷にメイドとして雇われ、すれ違いを重ねたものの、三年生の時に十歳年上の秋良と両思いになった。そして高校を卒業したこの春、秋良に学費を出してもらう形で美央は女子大学に進学し、同時にメイドではなく秋良の婚約者という身分になった。 「お前、大学はどうだ?」 「え……ふふっ」 「なんだよ」 「いえ」  一年前とまったく同じ切り出し方だったので、美央は笑ってしまった。 「なんでもいいからお話しすればよいでしょうか」 「ああ」 「実はお友達ができたんです。そのお友達が、秋良様にくれぐれもよろしくと」 「俺に? 誰だそいつ」 「蛍さんです。あ、蛍ちゃんと呼ぶように言われているのですがふたつ年上で……名字は赤石田(あかいしだ)です。名字を言えば秋良様ならわかると」 「赤石田蛍……赤石田家の傀儡娘か」 「かいらい娘?」  美央が不思議そうに聞き返すと秋良は簡単に説明した。  赤石田家は天蔵家と同じくらい身分の高い家柄だが、現当主夫妻は非常に利己的で自分たちの一人娘のことは道具にしか思っていない。幼子の娘と住居を別にしていたことは知る人ぞ知る事実だし、その娘の婚約者はれっきとした政略結婚相手として選ばれた男であることも周知だ。 「そんな育ちなんですね。蛍ちゃんはおうちのことをあまり話さないので、知りませんでした」 「倉沢女子大学に通う奴は上流家庭の娘ばかりだからな。赤石田家の傀儡娘以外にも似たような境遇のご令嬢はごろごろいるだろう。どうやって知り合ったんだ?」 「あの……お恥ずかしながら、私がほかの子に蔑まれていることに気付かなくて……見かねた蛍ちゃんが助けてくれたんです」  秋良が美央に進学を進めた大学は倉沢女子大学といって、学費が医大並みに高い名門の女子大学だ。倉沢女子大学卒という学歴は家柄の良さと当人の品性を保証するといっても過言ではなく、その学歴欲しさに上流家庭がこぞって娘を入学させるので、在学生のほとんどがお嬢様育ちだ。プライドが高いそのお嬢様たちからしてみれば、美央のように貧賤な育ちの女子は見下し、蔑む相手。上流家庭の令嬢でもないのになぜ倉沢女子大学に通っているのかと、一方的な侮辱を受けたのだろう。 「お前はものすごく懐が深いからな。厄介な育ちで心がゆがんでいそうな赤石田家のお嬢様から好かれたのか」  秋良は苦笑した。  自分がまさにそうだが、周囲の人間ほぼすべてを敵とみなして冷徹に生きてきたはずが、美央に対しては警戒心が薄れた。美央の傍は不思議と居心地がいいのだ。  つい最近天蔵グループの中規模の会社の社長に就任して多忙の日々を送っている秋良だが、帰宅して五分でも十分でも美央の声を聞けば疲れは癒される。身体を重ねずとも美央と隣り合って眠ることができれば、それだけで翌朝の目覚めが違う。おそらく蛍も、美央の持つ不思議な癒しのオーラを感じたのだろう。  美央の生い立ちは決して平凡ではない。離婚して家を出ていったという母親とは生き別れ、残った父親は多額の借金を残して蒸発。そしてその借金を天蔵家が肩代わりした見返りに、美央は秋良の屋敷でメイドとして働くことになった。そんな家庭環境で過ごしてきた美央だからこそ、同じように不遇な家庭環境で育った秋良や蛍の心を招いて無意識のうちに癒してしまうのだろう。美央は自分が失い、欲し、与えてほしいと希うものこそ人に与えられる優しさを持っているからだ。 「懐が深い……でしょうか」 「ああ、とてつもなく深い。でなけりゃあんな扱いを受けておきながら俺のことなんか好きにならないだろ」  二人のすれ違いの物語。それは過去のことではあるが、過去は決して変わらないしなくなりもしない。ならば腫物のように扱うのではなく、その過去さえも丸ごと二人の関係の一部として扱う。秋良はそう心に決めていた。両思いになるまでの間、本当は大事に思っているのに精神的幼さゆえに美央を傷つけてきた自分の過ちを忘れないためにも。 「私が秋良様を好きなのは、私の懐が深いからではないですよ。秋良様が素敵な男性で……かわいい人だからです」  美央はくすりと控えめに笑う。  春先の頃は「婚約者という身分など自分には恐れ多い」とかなり委縮していたが、夏を前にして少しは肩の力が抜けてきたようだ。 「赤石田家の娘ならいい手本だ。上流の奴らをいなす手練手管を教えてもらえ」 「ふふっ」 「なんだよ」 「メイド科の卒業生の私がなぜ倉沢女子大学に進学したのかと蛍ちゃんから訊かれたので、私にそういう立ち回りのスキルを身に着けてほしいと秋良様が望まれたからです、って説明したんです。そしたら蛍ちゃんがすごく感心しまして。『そういうことならいくらでも教えてあげる。だから仲良くしてね』と」 「心得ている、ってか。というか美央、お前、妙に好かれたな?」  美央が大学を卒業したら、秋良は美央と結婚したいと思っている。しかし上流身分の出ではない美央には、自分との結婚で多くの苦労をかけるだろうと思われる。美央の質素な育ちに気付いた倉沢女子大学のお嬢様たちが彼女を侮辱したらしいが、相手が女子大生ではなく百戦錬磨の上流の大人ともなれば、おそらくもっと些末なことで蔑まれるだろう。そこで秋良は、少しでも社交術やストレス耐性を身に付ける期間として大学生活を送ってほしいと美央に要望したのだ。 「まあ、交友関係が広がったのはよかったな」 「はい。高校のメイド科では同級生との友人関係があまり推奨されていませんでしたから、お友達と気楽におしゃべりできるだけでも嬉しいです。毎日いい経験ができていると思います。あっ、えっと、本業の勉強の方も楽しいです」  秋良は美央を見上げた。ずいぶんと朗らかに笑うようになったものだ。父親の借金を肩代わりしてもらったという負い目や、主とメイドという身分差。美央と自分の間にあったそれらのしこりがだいぶとけて減ってきているのだろう。 「ミルクティー……」 「ん?」 「あ、いえ……なんだか急に、甘いミルクティーが飲みたいなと思いまして」 「誰かに淹れさせるか」 「えっ、それくらいなら私がやりますよっ」 「いいから。こればかりはまだ慣れないんだろうが、使用人を使うことにも慣れろ」 「は、はい……」  数ヶ月前までの美央はこの屋敷で働くメイドの一人だったが、今はもうメイドではない。むしろ秋良の婚約者なので、使用人たちにかしずかれる立場だ。しかしどうにもそのことだけにはいまだ慣れる気配がない。美央が気にしないですむように、いっそのこと使用人全員を美央の見知らぬ者たちに変えるか――いつだったか秋良がそう提案したら、美央は首を横にぶんぶんと振って涙目になるほど拒絶した。いわく、「そんな自分勝手な理由で皆さんを解雇できない、しないでください」と。ならば、自分もかつては使用人であったとしても今は違うのだから、使用人を「使う」ことには慣れてもらわなければならない。  ソファを立ち上がった秋良は室内の内線を使って紅茶を配膳するように要求する。するとほどなくして、メイドではなく老齢の執事長山内がワゴンを押して秋良の自室を訪れた。 「わざわざ山内が来たのか」 「ええ、お二人に満足いただける紅茶を淹れられる自信がないと、ほかの者たちが恐縮してしまいまして」 「大げさだな。それくらい当たり前にできなくてどうする」 「美央様と同じように、我々もまだ少し、喜ばしい変化に慣れていないのですよ」 「や、山内さん……やめてください、美央様だなんて」  メイドだった頃、山内からは「袴田(はかまだ)さん」と呼ばれていた。秋良との距離感はだいぶ縮まってきたが、かつての仕事仲間から様付けで呼ばれることにはまだまだ大きな違和感がある。やはり誰かに頼むのではなく自分で淹れればよかったと、美央は後悔した。 「秋良様、いかがいたしましょうか。未来の奥様はそのようにおっしゃっているのですが」 「そうだな。いまだに俺のことは様付けで呼ぶしな」 「だ、だって……」  秋良はストレートで紅茶を飲み、ゆっくりと息を吐く。美央はミルクと砂糖をたっぷり入れてもらったカップを手にして困ったような表情を浮かべた。 「まあ、もう少し慣れるのを待ってやってくれ。大学で赤石田家の娘と友人になったらしいからな。卒業までに少しは上流身分の人間の振る舞いを身に付けられるだろう」 「さようですか。それは楽しみですね」 (うう……プレッシャー……)  山内にほほ笑まれた美央はごまかすように甘いミルクティーをぐっと飲み込んだ。  給仕を終えた山内が一礼して部屋を出ていく。その山内を見送りながら室内を見回した秋良はふと美央に提案した。 「リビングを真面目に使うか」 「リビングですか」 「この先家族になった時に、こうやって俺の私室で過ごすのもなんかおかしいだろ」 「そう……かもしれないですね」  休日の秋良は、外出の予定がないかぎりはこうして美央を私室に呼んでのんびりと過ごす。入籍前の今はまだ恋人という関係なのでこれでも悪くないだろうが、この先結婚して夫婦になったのなら、一緒の時間を過ごすのにふさわしい場所はリビングだろう。 「私は秋良様と一緒にいられれば、それがどこでも嬉しいです」  美央は両手でティーカップを包み込み、その温かさを手のひらで吸収する。温まった血流が身体に流れるのを感じて一度深呼吸をすると、美央はそのカップを目の前のテーブルの上に置いた。 「秋良様とこうして一緒にミルクティーを飲んで少しでもふれ合えるだけで……それだけで幸せです」 「そうか」  秋良も手に持っていたカップをテーブルの上の小皿に戻し、美央の肩に手を回す。美央は甘えるように秋良の肩に寄りかかった。 「空気を吸って、その空気で生きていることにわざわざ言葉が要らないみたいに……空が青いなあって思う時にわざわざ声に出さなくてもいいように……秋良様と一緒にいる時間にほかのものは要らない。あなたが隣にいてくれるだけで私は嬉しいです」  美央は少し顔の向きを変え、ひたいを秋良の二の腕にすり寄せた。  秋良の匂いがして、秋良の体温を感じる。隣にいる彼とふれ合って、いまこの瞬間に秋良と一緒にいる。それだけのことが嬉しい。それだけのことすらも、一年前は一切合切諦めてしまっていたから。今はもう、この時間があればそれだけでいいと思う。 「キスも不要か?」  秋良は美央の顔をのぞき込むようにわずかに俯いた。その唇は今にも美央の唇に重なりそうな距離まで迫る。 「それは……欲しいです」 「未来の奥様はどんなキスをご所望で?」 「えっと……甘くて、優しいの……ミルクティーみたいな」  秋良は美央の頬に手のひらを添えて、そっと彼女の顔を持ち上げる。それからふんわりと、美央の上唇を自分の唇で挟み込んだ。じれったいほどゆっくりと食むと、同じものを今度は下唇に。その次は舌で唇をなぞるように。決して性急な動きではなく、あくまでもゆったりと。カップの中の紅茶に砂糖がとけていく速度よりも、もっとゆっくりと。 「んっ……」  美央の息を吸い、美央の舌とふれ合い、美央の唇の味を楽しむ。そこに言葉は要らない。次はどうしようとか、どう感じているだろうかとか、そんなことを考える必要もない。ただ思うがままに。美央のことがいとしい、いとしいと、心の底から湧いて出てくる気持ちをふれ合う場所から彼女の中へ流し込むように。 「美央、愛してる」  ミルクティーのような甘さ、やわらかさ、香り。それがあれば言葉は要らない。刺激は直接身体に伝わってくる。ふれ合う場所から全部わかる。この人が好き。この人から愛されてる。言葉なんかなくったって信じていられる。でもやっぱり言葉にして言わずにはいられない。 「私もです、秋良様」  甘すぎる穏やかさを無残に捨てて、次は激しく求め合うのも悪くない。けれども今日はミルクティーな休日。のんびりゆっくり、そのすべてを楽しもう。  どちらからともなくキスが止まり、閉じていた目を開く。お互いの目に映るのは、とても幸せそうな相手の顔。それが嬉しくて愛おしくて、何度だって繰り返す。甘くやわらかく、うっとりするような心地のキスを。そうして休日の太陽が沈んだら、また同じ夜を過ごすのだ。
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