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からっぽの寺
寺には小さいお堂があり、小さな仏が祀られていた。
花やお菓子が供えられ、そからっぽの寺して小銭もいくらか。
その小銭を盗んで、俺と友人はお菓子を購入。
ただ、好物のチョコバットは、おいしくないどころか味がしなかった。
袋の内側に「当たり」と書かれていたものを、レジに持っていなかったし。
だって、レジのおばさんの目がこわかったから。
ふだんから商店のおばさんは愛想がよくなかったが、このときは睨みつけていたと思う。
俺たちがお堂から小銭を奪ったのを、お見とおしとばかり。
やましさから、見咎められているように錯覚したのだろう。
実際は、誰にもばれず、怒られなかったものの、それから一週間「罰が当たるのでは」と悪夢にうなされつづけた。
日が経つにつれ、恐怖をともなう罪悪感は薄れていき、子供とあって、そう引きずることなく。
ただ、おばさんの黒々とした目は、いつまでも忘れられず、そのあと、もちろん神社仏閣でわるさをしなかったし、善行をしないまでも罰が当たりな行為をせぬよう気をつけて生きてきた。
一方で、共犯者の友人は開きなおってしまったらしい。
悪行をしようと、見つからず捕まらず裁かれなければ平気だし、どうせ仏は無能だとばかりに。
あれから二十年経って、連絡をしてきた友人は「うまい話がある」と投資をすすめてきた。
ねずみ講の詐欺だ。
二十年前、子供ながら窃盗をしたのを後悔したり、教訓にするでなく、味を占めてがっぽがっぽ儲けてうはうはしているよう。
勧誘を断ってから、昔のことを話して「さすがに罰が当たるぞ」と忠告するも「なんだよ、けち」とすぐに電話を切られてしまった。
俺のいやな予感は当たった。
しばらくもせず、俺のまわりの人たちが、友人のすすめる投資をしだしたのだ。
投資をする人が増えるにつれ、それと関係ないようながら、地蔵の首がなくなっていった。
ここらで有名な寺、そこに無数にならぶ地蔵のがだ。
それらの首が切られて、顔が消失する事件が、友人の勧誘開始とほぼ同時に起こり、ずっとつづいたもので。
「このままでは友人に、とんでもない罰が当たるのではないか・・・」
心配になりつつ、友人の連絡先や行方が分からず、気を揉むしかなかった、ある日。
歩道を歩いていたら、よこを通りすぎたばかりのトラックが、けたたましい衝突音を立てて目のまえに。
後輪が歩道の段差にぶつかったところで、積み荷が放られて、俺に襲いかかってきた。
気がつくと、白い部屋に寝かされていた。
まず気づいたのは両手足の感覚がないこと。
意識をもどし、しばらくして訪れた医者と警察が教えてくれたところ。
信号無視した車と衝突して、トラックが歩道に乗りあげた。
そのトラックに俺は轢かれなかったとはいえ、ばらけた積み荷、その巨大な石に手足がつぶされたという。
ちなみに巨大な石は、首を斬られた地蔵の新しい顔になる予定だったとか。
一人になってから「どうして、俺なんだ!」と泣き叫んだ。
「罰当たりなのは、あいつなのに!」
そう吠えたそばから友人が見舞いに。
怒りをぶつけるつもりが、顔を見て息を飲んだ。
かつてのお堂の小さい仏、そっくりの面がまえだったから。
一目ですべてを察した俺は、あらためて絶望をして嘆いた。
仏はなにをやっているのだと。
この世に人を救う仏はいなく、かつてのあの寺も空っぽだったのかもしれない。
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