引っ越し

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 その日、私はいつもの休日より早めに起きた。とはいえ、遮光カーテンの隙間からはすでに春の朝日が差し込んでいる。  前日の仕事の疲れが少し残っていて少し気だるい。けれど、無理やりベッドから起き上がり、あくびをしながら大きく伸びをして、カーテンを開けた。  振り返って部屋の隅に立てかけられた段ボールの束を見て、ため息をつく。会社からは少し遠いが、住み慣れて愛着も感じてきたこの部屋から引っ越さなければならないのだ。  この部屋は、元は妹の進学に合わせて引っ越してきた物件だった。だから妹の通っていた大学からは近いが、私の通勤先へは遠い。多少の不便を我慢しながらもこの部屋に住み続けてきたのは、両親から妹のことを頼まれたからというのが大きい。  妹自身、内心はどう思っていたかわからないが、それなりにこの部屋を気に入っていたらしく、自室だけでなく共有スペースのダイニングでもよく過ごしていた。  一方の私は、2時間弱かかる通勤時間と仕事の疲れであまり共有スペースでは過ごしていなかった。帰宅後はすぐに自室へ行き着替えると、キッチンへ行って晩御飯の支度をする。妹が気まぐれに私の分も作ってくれていることもあったが、たいていは互いに自分の分を用意して食べ、茶碗を洗って片付けるだけだった。  しかし、妹はすでにいない。卒業とほぼ同時に自室を片付けて引っ越した。 「お姉ちゃんみたいに通勤に時間かけて、帰ってきたらご飯食べて寝るだけの生活はしたくない」  そう言って決まっていた就職先に近い物件を見つけると、引っ越していったのだった。  妹が出て行って、親から援助の打ち切りを宣言された以上、この部屋の家賃を支払うことは私一人では無理なので、必然的に私も物件探しをした。 「部屋も余るしねぇ」  今度の部屋は通勤時間のかからないところがいいと思って、勤めている不動産会社の仲介している物件から探したが、春の引っ越しシーズン後半にようやく見つけたその部屋は少し古かった。  内見に伺った建物の前で待っていたのは、60代と思しき女性だった。 「大家の只野です」 「お世話になります、坂下不動産の新倉優茉です」  私は名刺を取り出すと、大家さんに差し出した。大家さんはにこっと笑って名刺を受け取ると、持っていた鍵束から303と書かれた札のついた鍵を取り出した。 「坂下不動産さんには物件の仲介をお願いしていますから、もうすでにご存じだと思うけれど、このマンションは少し古くてね、でもお部屋はみんな日当たりもいいし、リフォームもしてあるし、住んでる方たちも女性ばかりだしね。1階に管理人さんもいるし、女性の一人暮らしにはいい物件だと思うのよ」  エントランスを抜けて階段を上ると奥から二つ目の部屋に案内される。  大家さんが鍵を開けて玄関に入るとすぐにキッチンで広さは2畳ほどだろうか。持ってきていたスリッパを履いて上がった。  右手にはすりガラスのドアと木製のドアが一つずつ。開けて中を確かめると、お風呂とトイレだった。左手には流し台と冷蔵庫置き場、それに洗濯機置き場があった。キッチンの奥には小窓のついたドアがある。入った奥の部屋は8畳のフローリングだった。  部屋の奥には大きな掃き出し窓があり、ベランダもついている。春の午後の柔らかな光が差し込み、部屋全体が温かい。窓を開けて外を眺めると駐車場があって視界は広かった。  確かに築年数は経っていたが、気になることもなく、私はこの部屋に決めたのだった。  部屋着に着替えた私は、顔を洗って軽く朝食を済ますと、広げて粘着テープで固定した段ボールへ物を詰め始めた。  引っ越しの日は一週間後だから、その間の通勤着は最後にして、まずはシーズン外の衣類を詰めていこう。そんなことを考えながら作業をしていると、テーブルの上に積んであった資格の本に脛をぶつけて、床に落としてしまった。 「何やってんの、もう…」  自分に向かって文句を言いながら、本を拾い上げると仕事用と書かれた段ボールにそれを入れる。 棚に並べてある本を取り出しては同じように詰めていくのを繰り返して、仕事用の段ボールがいっぱいになった。いずれはこの部屋を引っ越すとわかっていたものの、思った以上に物を増やしていたようで、段ボールは7個ほどになった。  続いて共有スペースに置いていた私物を段ボールに詰めていく。二人で使っていた家電は節約のためにもなるべく持っていくことにしたが、冷蔵庫と洗濯機だけは新居のスペースのサイズ的に無理だったので、リサイクル業者に買い取ってもらった。  新しい冷蔵庫と洗濯機は引っ越しの次の休みの日に届くよう手配してある。  翌週、仕事に行くのより早い時間にセットしたアラームで起きた私は、引っ越し業者が来る前に身支度を整えると、前夜のうちにコンビニで買っておいたおにぎりをほおばった。  部屋のあちこちに積み上げられた段ボールには、それぞれどこに置くかを油性ペンで大きく書いてある。  おにぎりを食べ終えた私は、カーテンを外して最後の段ボールに入れて封をすると、深呼吸をした。 「これで荷物は全部入れ終わったかな」  共有スペースをくまなく見て回って忘れ物がないかを確認する。  昨日、新居の掃除をして帰ってきて、シャワーを浴びたときにバスルームも掃除したし、キッチンもひと通り掃除した。それでも何か忘れてることはないかと思ってしまうのだった。  そうして、業者との約束の時間の数分前に、玄関のチャイムが鳴った。 「おはようございます、丸野運送です。ご利用ありがとうございます」  玄関を開けると、元気のいい挨拶の運送業者の作業員が二人、帽子を片手に入ってきた。  作業員たちは素早く養生を済ませると、大型家具や段ボールを手際よく運んでいく。  一方で私は物が運び出された後の部屋を掃いたり拭いたりしていく。  荷物がすべて運び出された部屋はがらんとしていて、少し寂しそうだ。つられるように私もしんみりとしていると、作業員の一人が戻ってきた。 「では、予定通り午後2時に新居前でお待ちしてますんで」  作業員はそう言うと、さっと帽子を取っておじぎをして小走りで出て行った。  数十分後、管理会社から来た人に一通り室内を確認してもらい、鍵の返却をして明け渡す。  天気が良くて本当に良かったと思いながら、マンションの駐輪場に止めていた自転車を取り出して荷物をかごにのせ、新居に向けて出発する。  新居までの道のりはスマホの地図アプリで確認してある。画面を見ながら自転車を走らせるわけにはいかないが、信号や大きな通りに差し掛かるたびに一時停止して、スマホを取り出して画面を確認しては自転車を走らせた。  そうして、運送業者との約束の時間前に余裕をもって到着した。  途中のコンビニで買ったお茶を飲みながら業者のトラックを待っていると、時間より前にトラックはやってきた。 「お待たせしましたー」 「いえいえ、私もちょっと前に来たところです」  トラックから降りてきた作業員とあいさつをし、差し入れですと言ってスポーツ飲料を渡すと、笑顔で受け取ってくれた。  新居の鍵はすでに受け取ってあった。契約を交わした後、清掃してあると聞いていたが念のために掃除しに来ていたからだ。  管理人室の小窓をノックすると、50代くらいの男性管理人さんが顔を出した。 「303に越してきた新倉です。荷物搬入をするので、うるさくしますがよろしくお願いします」 「はいはい、お話は伺ってます。気を付けて作業してください」  階段を上って303号室のドアの鍵を開けると、作業員が全開にして固定した。その間に部屋に入った私はキッチンの天井灯を点けて、部屋に続くドアを開けた。  作業員は小さく「失礼します」と言って入ってきたかと思うと、どんどんと養生を済ませていく。  もう一人の作業員は置く部屋の書かれた段ボールを次々と運び込んだ。  8畳の部屋のシーリングライトも点けたが、春の日差しが大きな窓から入ってきているため室内は明るい。  冷蔵庫と洗濯機という大物がない分、ベッドの組み立てをお願いしたが、それもあっという間に仕上げて、搬入作業は2時間弱で終了した。 「お荷物は以上になりますが、間違いないですか?」 「はい、問題ありません」 「ではこちらの書類の確認事項を確認していただいて、一番下にサインをお願いします」  クリップボードに挟まれた書類を受け取ると、私は内容を確認してサインした。 「今回は当社をご利用いただき、ありがとうございました。また機会がありましたら、よろしくお願いいたします」  クリップボードを返却すると、作業員は帽子を取って深々とお辞儀をして、養生に使っていたプラスチック段ボールを抱えて、帰っていった。 「さてと…」  積まれた段ボールの前で、私は腕まくりするとひとつずつ開けて片付け始めた。  いつもの時間に鳴ったアラームを止めて、私はベッドから起き上がる。隙間から朝日が差し込むカーテンを開けて大きく伸びをした。荷物の片付けの疲れは残っていたが、すっきりさわやかに目覚めることができたのは、新居の家具配置を自分の思うとおりにできているからかもしれない。  パジャマのまま洗面と朝食を済ませて、身支度を始める。この部屋からの初出勤だ。  靴を履いて鞄と鍵を持つと、私は玄関のドアを開けた。 「行ってきます!」
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