1.画竜点睛

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1.画竜点睛

 夏期講習でほぼ埋めつくされた夏休みが明け、二学期もだいぶ進んでいた。街路樹のポプラ並木は色付き始め、山から市街地に吹き下ろす風も冷たくなりだして、いつの間にか、町は秋の気配が濃くなっている。  土曜日の午後。友人たちからの遊びの誘いを断って、黄海沙羅(きのみさら)はひとり、休日の町を歩いていた。そうはいっても、足取りは重い。法律事務所、コンビニ、金物屋を通りすぎ、目的の看板が見えたところで、沙羅は思わずため息をもらした。 〈クロキ怪異相談所〉  雑居ビルの二階に、小さな看板が取りつけられている。いかにも胡散臭い風貌だが、沙羅は以前、友人数名が突然消えるという怪現象に巻きこまれたときにここへ駆け込んで、助けられたことがあった。多少おかしなところはあったものの、白髪の所長・似内黒樹(にたないくろき)も、アルバイトだという大学生のお兄さんも、高校生である沙羅を門前払いせず、きちんと問題に向き合い、解決してくれたのだ。 「今回も、大丈夫だよね……」  沙羅は独りごち、生徒手帳を取りだした。春の応援歌練習以来、捲ることも少なくなったページの一番後ろ、ポケットの部分に挟んでいた名刺を抜き取って、お守りがわりに握りしめる。別れぎわ、黒樹がくれたものだ。なにかあったら、また来て良いと。  ひとり頷き、傍に停められていた車の脇を通りすぎて、雑居ビルの外階段に足を踏み出す。扉の前に立って、ひと呼吸。沙羅は思いきって、ドアをノックした。  以前来たときは緊急事態だったから、礼儀もなにもあったものではなかった。が、今は違う。  沙羅は茶髪のサイドテールを整え、ブラウスのボタンがきちんと留められているか、おろしたてのスラックスの裾が汚れていないか、素早く確かめた。唇を湿らせ、つま先を上げる。二、三秒の沈黙の後、「はい」と若い男の声が返ってきた。足音が近づくとともに、ドアが開く。  出てきたのは、黒髪の青年だった。沙羅をひと目見て、首を捻る。 「どうも、ご依頼です……あ、あれ……? 君、たしか、前に相談に来てくれた子だよね? ……ええと、そう、黄海さん?」  ダークブラウンのカーゴパンツに、モスグリーンのゆったりとしたシャツ。前に会ったときとは違い、黒髪の前髪が一部分、色が抜けていたが、穏やかな声音も、涼しげな三白眼も、確かに見覚えのあるものだった。怪現象に巻きこまれ、泣きそうになっていた沙羅を何度も励ましてくれた大学生。 「そうです、黄海沙羅です! おひさしぶりです、ヘライさん!」  名前を覚えていたもらっていたことにホッとして、沙羅はパッと顔をほころばせた。自然と大きくなった声に、戸来(へらい)が目を丸くし、慌てて人さし指をたてる。 「し、しーっ! ごめんね、今、依頼人が来てて……」  声をひそめつつ、チラリと後ろをふり返る。沙羅はハッとして、口もとを手で覆った。 「ご、ごめんなさい……!」  ヒソヒソ声で謝ると、戸来は苦笑した。 「いや、こっちこそ、ごめんね? 覚えててくれてありがとう。あらためて、戸来優佑(へらいゆうすけ)です」  冗談っぽく頭を下げ、大学生は言葉をついだ。 「今は先客がいるけど、困ってるんでしょ。こっそり入ってくれれば大丈夫だから、ほら、入って、入って。  ちょっとあとになっちゃうけど、大丈夫?」 「あ、あの、全然、大丈夫です。実はちょっと、ここでお手伝いさせてもらえないかなって、相談に来ただけなので……」  優しげな言葉が、今の沙羅にとっては決まり悪かった。依頼人は困りごとがあって来ているのだろうが、沙羅は緊急で困っているわけではない。  モゴモゴと打ち明けた沙羅に、戸来が「え?」と目を丸くする。が、すぐに気を取り直して、「とりあえず、クロさんが空くまで待とうか」と微笑んだ。  引き下がる間もなく促され、泥棒のようにコソコソと入る。戸来に手招きされて給湯室に入る間際、沙羅はチラリと応接間を見た。依頼人だろう、コーヒーを前にした男女二人が、革張りのソファに並んで座っていた。  沙羅のいる角度から顔は見えないが、どちらも中肉中背で、秋物のシャツにズボンというラフな格好をしている。二、三十代ほどの夫婦だろう。と、お客の向かいに腰かける黒樹と目が合った。 「おや、トキさん。そちらは……」  沙羅が会釈する。  戸来は肩を竦めた。沙羅が助けられたときもそうだったが、ここの上司はなぜか、戸来のことを〈トキさん〉と渾名で呼んでいる。 「ちょっとあとで、相談があるそうです。でも、緊急ってわけじゃないとのことなので」  戸来と黒樹の視線がぶつかる。が、二人のやりとりよりも、沙羅はふり返った依頼人の方に、目を奪われていた。  紺色のシャツを着た気弱そうな男性に寄り添う、やわらかな長い茶髪の女性。彼女の目元は、巻かれた黒い布に、しっかりと覆われていた。
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