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「いや、べつにいいんすよ? 依頼人の成人男性じゃなくて、アルバイトの女の子をまっ先に庇ったって。……でもさぁ、なぁんで、依頼人ほっぽっちゃうのかなぁ……。おかげでこっちは、結構、トラウマな影像見ちゃったんすけど」
「いや、ホント、つい……じゃなくって。……すみませんでした……」
ブチブチと文句を言う田山に、戸来は何度目かの平謝りをした。
黒樹の仕事は大成功だった。見事に化生を退治した。が、問題は、そもそもの退治方法がナイフを使う、ということだった。どういうわけか、黒樹が攻撃する直前、田山に向かって走りかけていた女の動きが止まったのだ。切り取られた、静止画のように。
そこで黒樹のナイフは、女を斬った。
化生にも血が流れている。最終的に消えるとはいえ、ナイフで刺したそのとき、「ギャー!」という断末魔もさることながら、街路灯に照らされて、ショッキングな絵面になるのは当然の流れだった。田山が言う問題は、そのとき起こったのだ。
戸来は咄嗟に、隣にいた沙羅を庇った。自分の体で遮り、沙羅が決定的な場面を見ないようにするために。その結果、沙羅からはほんの一瞬、不服そうな目を向けられ、田山からは、現在進行形でブツブツ言われることになっている。
血を流した女は消え、完全に退治されたことを、黒樹が確認したのだ。倒れていた、田山のドッペルゲンガーも消えた。
既に、場面は穏やかな夜に戻っている。そのせいで緊張の糸が切れ、田山の口から文句も出るようになったのだろう。
──それにしても。
虫の声を聞きながら、戸来はそろそろ、顔が引き攣るのを感じていた。
沙羅になら、百歩譲らなくとも、文句を言われたって平気なのだ。大学生の戸来にとって、高校生の沙羅は守るべき対象だから。もちろん、依頼人だって守る対象だし、ショッキングな場面を見てしまったことは気の毒に思うが、成人男性と高校生の女の子なら、後者を優先して守るのは非常識なことでもないだろう。
──大のおとなが、高校生を守ったことに文句言うなよな。
そう言ってやりたいのをグッとこらえ、戸来は頭を下げた。
「本当、すみませんでした……従業員の高校生より、お客さんを優先するべきでしたよね」
こらえる代わりに、チクリとは言ってやる。
たじろいだ田山が、頭をポリポリ掻いた。
「いや、べつに、女の子助けるなってんじゃないっすけどね……助けてもらったことは、ありがたいと思ってるし……」
急に勢いがしぼんでいく。依頼人の視線が沙羅に向かったのをいいことに、戸来はこっそり、舌をだした。沙羅には気づかれたが、問題ないだろう。
気詰まりな沈黙をやぶったのは、黒樹だった。ナイフを振って血を落とすと、黒樹はねらったように、「一応、説明させていただきますとね」と口を開いた。
「さっきの女は、田山さんのポスターに込められた想いを餌に、たまたま通りすがった〈何か〉が化けていたのでしょう。女もドッペルゲンガーも、同じ問題だったんですよ。
あの女は田山さんの写真を撮ることで、魂を映しとり、所謂ドッペルゲンガーを用意した。そして、そのドッペルゲンガーから吸血していたので、田山さんの不調が起こっていたのでしょうな。ひょっとしたら……」
そう言いながら、黒樹はカーブミラーを見上げた。
「この鏡や、田山さんのカメラのレンズなんかを媒介してあらわれ、外を歩きまわっていたのかもしれません。鏡やレンズというものは、時に世界を映しすぎることがありますからな。ドッペルゲンガー……写し身からしか人を襲えないようなヤツでも、外の世界に繋げてしまったのでしょう。
まぁ、とにかく、弱い化物ですからな。田山さんの体調もすぐ元に戻るでしょう。今回の件は、たまたま通りかかった何かが取り憑いただけで、そのポスターだとかカメラだとか、大事にしていれば、化けて出ることもないと思いますよ」
「そんなことって……」
「あ、あるもんなんすねぇ……」
沙羅と田山がポカンとする。どこか面白がるように微笑むだけの黒樹に、戸来は口を挟んだ。
「あの、沙羅さん、自分のスマホであの女の写真撮ってたんですけど……それは、大丈夫なんですか?」
沙羅がハッとする。黒樹は顎に手をやり、
「写真の消し方はわかりませんが……もしかしたら、そのおかげで、女の動きが止まっていたのかもしれませんね。一種の呪詛返しのようなもので。退治はしたので、問題ないと思いますよ。サラさん、よく、思いつきましたな」
「え? ええ、いやぁ……」
曖昧に微笑みつつ、「消し方がわからない」という黒樹の言葉に、沙羅がぎくりと体を強張らせる。戸来はそっと耳打ちした。
「大丈夫。クロさんの『わからない』はスマホの使い方だから。普通に消しちゃいな」
二人で写真の消去にかかったとき、戸来がふと、「でも」と言葉をついだ。
「あの女、〈こわい、こわい〉って、何を怖がってたんだろうね」
「……え?」
沙羅は膚が粟立つのを感じた。厭な予感が、つま先から頭のてっぺんまで駆け抜ける。
その瞬間。
沙羅の目の前を、黒い影が翻った。
沙羅も、戸来も、田山も、ぽかんとしていた。黒樹が飛びだしていったのだと理解したはいいものの、何が起こっているのかまでは、理解が追いついていなかった。
飛びだした黒樹は、両腕を上げ、自分よりも大きく細長い何かを支えていた。傾いているソレが、ギシリと軋んだ音をたてる。先端部分が白く光っているのを見て、沙羅はようやく、事態を理解した。
「街路灯……」
呟いた沙羅の横から、戸来が慌ててまわりを見まわし、黒樹と田山のそばに近寄った。
「大丈夫ですか⁉ ケガは⁉ 俺も支えますから……」
「ああ、トキさん、結構ですよ。ほら、この通り、私なら平気なので」
かるい調子で言いながら、黒樹が腕を曲げる。倒れかかった街路灯を地面にもどしたまま揺らし、軽々と弄ぶ黒樹に、田山が「ひいっ」と悲鳴をあげた。
「お、オレは全然、大丈夫っじゃないっすよぉ! は、はやく、それ、どかして!」
反応が気に入ったのか、黒樹が街路灯をギシギシと揺らした。田山が再び悲鳴をあげる。
「……二人とも、大丈夫そうですね。よかった。あとクロさん、もうやめてあげてください」
「はぁい。ま、もう少し揺らしても、問題なさそうですけどねぇ。どうせ腐食して、ボロボロですし」
しかたない、といった口ぶりで街路灯を地面に横たえる黒樹のほうへ、沙羅はやや距離をとりつつも近寄った。
「もしかして……この危険のことを予知して、さっきの女の人は〈こわい〉って言ってたんですかね」
呟いた沙羅に、田山が「そういうこと⁉」と目を見開く。へなへなと腰をおろし、やがて、大きく息をついた。
「とにかく、じゃあこれであの女とも、ドッペルゲンガーとも、いよいよおさらばできたってことっすよね……? ああ、よかったぁ。なんか、寿命が延びた気がするっす! マジ、あざっす!」
満面の笑みを浮かべて、田山はガッツポーズを作った。生き生きとした口ぶりには、安堵と希望が満ちあふれている。
黒樹が「断言はできませんがね」と呟いたのには、気づかなかったらしい。微妙な顔をする沙羅と戸来をよそに、田山はすっかり感謝しきっている。
戸来が口を開きかけるより早く、無事解決した、とばかりに、黒樹は笑みを浮かべて言った。
「では皆さん、そろそろ帰りましょうか。もう夜ですし、四辻は魔に遭遇しやすい場所ですからね」
八時五十分。住宅地はひっそりと静まりかえり、夜に浸り始めていた。
田山を自宅まで送り、依頼料を受けとると、黒樹は助手たちに目を向けた。
「おつかれさまでした。では、門限に間に合うように、まず、サラさんを送りますか。その次は、トキさんですな。夜道は危ないですからね」
白い光を投げつける街路灯の下で、戸来が複雑そうな顔をする。
つい笑いそうになった沙羅は、じろりと睨まれ、慌てて目を逸らした。
送ると言った割に、あいかわらず、黒樹の足は速い。いつもよりも早足になりながら、沙羅は闇に溶け込みそうなスーツの後ろ姿を見ていた。
化物を退治して、満足そうな、すべるような足取りで歩いて行く黒樹。その浮かれた感じは、胡散臭いとも、子どもじみているとも見える。
──この人、本当に何者なんだろう? どういう生き方してきたら、あんな風に、楽しそうに化物退治なんてできるんだろう?
全く想像がつかない。少なくとも、沙羅が高校で教えられるような進路からは、辿ることのできない道だろう。
不思議に思っていると、数メートル先を指さし、黒樹が沙羅たちをふり返った。
「あ、自動販売機ですよ。せっかくお二人もがんばったことですし、オレンジジュースを買いましょうか」
そう言うなり、自販機めがけて走って行く。あいかわらず、スーツとは思えない身軽さだった。
断る間も、ほかに飲みたいものを訊くこともなく、あっという間に、黒樹は自販機のもとに辿り着いている。
(リンゴでオブドウでもなく、オレンジジュースなんだ……)
と沙羅が思っていると、隣で小さく笑う音がした。
見れば、戸来が苦笑いしている。目が合うと、戸来は穏やかな声音で言った。
「あの人、いつもオレンジジュースなんだよねぇ」
「いつも……なんですか?」
「そう。俺も、いつもオレンジジュース奢ってもらってるんだ。ほかにメニューがあったとしても、オレンジジュース。クロさん、前にみかん水が気に入ってたって話してたから、自分が好きなのに近いの選んでくれてるのかもね」
「そう、なんだ……。なんていうか、優しいんですね。さっきまで、すごい仕事してましたけど……」
表情をくずした沙羅に、戸来は「うん……」と曖昧な声をだした。
「どうだった? 今日の仕事」
空気が変わる。歩きながら、沙羅は戸来を見た。
「わたし、意外と大丈夫でしたよ。……ええと、ヘライさんに庇ってもらったっていうのも、ありますけど……あの、ありがとうございました。わたしのせいで色々、田山さんから言われちゃったみたいで、すみません」
戸来が目を丸くする。つくづくと沙羅を見て、口の端をもちあげた。
「沙羅さんからしたら、よけいなことだったかなって思ってたけど。まさか、感謝されるなんてな。田山さんのことはいいよ、あの人なんだかんだ、タフそうだったし……ま、ちょっとひっかかるところはあったけど、すっかり元気になったあの調子なら、もう、なにかあっても大丈夫でしょ」
茶化すように言ってから、ふと、真剣な顔になった。
「この手伝い、沙羅さんが決めてやったってことは、わかってるよ。でも、だからって、逃げたり隠れたりしちゃダメだってことには、ならないからね。もしこれからの仕事で、今日みたいに化生と遭って、俺やクロさんがそばにいないって状況のときは、呼んでよ。呼んでくれれば、助けに行くから」
サラリとしているが、真面目な声音。その顔は、化生と対峙して向かって行ったときの不敵な表情とは違う、高校生を気に掛ける大人の顔だった。
気圧されたように、沙羅は小さく頷いた。
口もとだけで、戸来がニッと笑う。
「よし。じゃ、クロさんとこ行こうか。缶ジュース、買ってくれてるみたいだよ」
上司のもとへ駆け寄っていく戸来の後ろ姿を見ながら、沙羅はきゅっと唇をむすんだ。
夜風が頬と髪を撫でていく。もう、あの妙にあまい匂いはない。
正直なところ、今日、本当に怖かったのは、化け物と遭ったことじゃなかった。
田山が化生の女が誰か、本当に知らないと気づいたとき。相手が誰か解らない、正体が解らないのに、自分と関わりがあるらしい。そんな状況がこわいと、思ったのだ。自分の問題を、突きつけられたような気がして……。
──でも、さっきは、助けてくれたんだよね……?
あの女の写真を撮るように教えてくれた〈青年〉。夜空の下、チラリと見た彼の表情は動かない。
少し考えて、沙羅は戸来のあとを追った。ずっと傍にいた〈青年〉と共に。
沙羅にとって今日は、徹底的に内容の詰め込まれた日だった。下宿に戻ってすぐ、自分の郵便受けを確認した沙羅は、
「あれ……?」
と、首をひねった。
ほとんどいつも空っぽの郵便受けに、一枚の封筒が入っていたのだ。
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