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3.おとしご
「それにしても、ついてなかったね……」
ため息をつく戸来に、リュックの汚れを落としていた沙羅は顔を上げた。日が落ちるのも早くなっているからか、さっきまで鮮やかなオレンジ色だった空には、暗さが忍び込んでいる。
近所の公民館のスピーカーから、夕方五時のチャイムが鳴りだした。〈遠き山に日は落ちて〉を聞きながら、戸来が乱れた髪の毛を整える。
緊張がとけたからか、足が痛い。泥に汚れたローファーに目を落とし、沙羅は頷いた。
「そう、ですね……。まさか、こんな市街地で幽霊に追っかけられるなんて」
車道には何台もの車が走り、道沿いのレストランやコンビニには、大学生や大人、高校生の集団がたむろしたり、出入りしたりしているのが見える。顔を上げると、空にはポツポツと星が光り始めていた。
「でも、無事でよかったわよ。沙羅ちゃん、具合は大丈夫?」
優しげな声に、沙羅はチラリとふり返り、「はい」と笑みを浮かべた。
高校から二キロは離れた、市街地の歩道。時々自転車は通りすぎるものの、歩いている人間は少ない中、沙羅たち三人は縦一列になってゆっくりと歩いていた。
前を歩くのは、戸来。次が沙羅。その後ろを歩いているのは、戸来の恋人の知世だった。長い黒髪に白い肌、睫毛に縁取られた大きな目。顎や指先は細く、言葉遣いも綺麗で、おまけに苗字が〈桜小路〉。
戸来が大学構内から出てきたとき、ちょうど、いかにもお嬢様といったこの人と連れだって歩いていたとは気づかなかった。でも、出会えたのはラッキーだったと思う。沙羅だって、まさか、下校途中で霊と行き当たり、憑いてこられるはめになるとは思わなかったのだ。
──やっぱり、いつもと違う道歩いて、わき道に逸れたのが良くなかったなぁ……。
心の中でため息をつきながら、沙羅はさっきまでの災難をあらためて思い返した。
午後四時過ぎのことだった。今日は美術部の活動がなく、ほかの友達は部活の活動日だったので、沙羅は一人で帰っていた。さっさと課題を終わらせて、祖母からの誘いにあった山の歴史について調べようと思ったのだ。でも、考えごとをしているうちに、いつもの道を通りすぎてしまったらしく、気づいたら、傍に見知らぬ神社と林があった。
あれっと思ったとき、空は翳りだしていた。灰色の雲が流れ、金色の夕日を遮る。つめたい風に、林の笹の葉が擦れ合って、サラサラとやわらかな音をたてた。
人影を見つけたのは、そのときだった。
コンクリートの道路がのびる前方に、一人の大人が立っていた。それを見た瞬間、沙羅はギョッとして、思わず息をのんだ。
真っ黒なのだ。髪や服の色どころではない。夕方、百メートルほど先の道とはいっても、髪や目や鼻、首、服の裾といった区別がなく、とにかく黒い。まるで、地面に落ちる影がそのまま、起き上がったかのようだった。
沙羅は前を見つめた。どこかから、野焼きの煙が流れてくる。煙たくても、動けなかった。
辺りに人通りはなく、神社にも人の気配がない。人影は道路のまん中に、ただ、突っ立っている。それでも、傍を通りすぎる気にはなれず、結局、沙羅は影を見つめたまま、ゆっくりとあとずさりを始めた。
熊にでも遭ったときのように、目を離さず、じりじり距離をとっていく。ある程度、離れたところで、沙羅は踵を返した。早足で、来た道を戻る。
住宅が見え、大きな車道が見え、自転車ショップやカフェ、歩道を歩く人の姿も見え始めてもまだ、沙羅は息を詰めていた。赤信号の横断歩道にさしかかって、やっと息をついた。しかし──。
隣に並んだのは、あの真っ黒い影だった。影は沙羅の手首を掴もうとした。すんでのところでふりきって、方向を変える。また歩きだしながら、チラッと後ろを見ると、影はついてきていた。周りの通行人には見えていないらしく、影は人をすり抜けて、すべるようにこちらを追ってくる。
──どこまでついてくるつもり?
いっそのこと影に突っかかっていって泣けば、化生退治に効くという涙で撃退できるのだろう。しかし、こんなときに限って、涙が出る気配はなかった。せっかく距離があるのに、わざわざ近づくというのも、得策でない気がする。
そうこうしているうちに、大学の門が見えてきた。バス停を通りすぎ、だんだん、翡翠色の正門と守衛所が近づいてくる。いっそ、大学構内に逃げ込もうか、と考えた沙羅の目に、見慣れた姿が飛びこんできた。
前髪の一部だけ色が抜けている黒髪に、ダークブラウンのシャツを着て、黒いリュックを背負っている戸来が、門から出て歩いて来る。親しげな笑みを浮かべる先には、沙羅の知らない女の人がいた。彼女か友達か分からないが、今の沙羅には、気を遣う余裕はない。
「すみません、助けてください!」
ついてくる影を気に掛ながら、沙羅は戸来の前に走り寄った。戸来は面食らっていたが、すぐ、影を見ると、戸来は女の人を後ろに庇い、沙羅を招き寄せた。
「厄介そうなのに出遭ったね」
眉を顰めながら、迫り来る影を見つめ、女の人に目をやった。
「知世さん、ごめん。道を変えよう。アレから距離をとらないと」
そう言って、女の人と沙羅を促し、影から逃げるように歩きだした。自分は大丈夫だから、と戸来自身は一番後ろになっていた。
歩きながら事情を説明すると、戸来も知世も、同情してくれた。知世は戸来とは恋人関係で、沙羅のことも、クロキ怪異相談所のことも知っているとのことだった。
そうして十分かそれ以上、歩いていただろうか。戸来と歩きだしてから、チラチラとふり返っていた沙羅は、影がだんだん小さくなっていくのを感じていた。どういうわけか、ついてくるペースが落ちているらしい。
とうとう、影が見えなくなったのは、大学から一キロほど離れた市街地に入ってのことだった。三人はようやく、息をつくことができたのだ。
今はもう落ちついて、先頭を戸来が、後ろを知世が歩き、大学のほうへ、来た道とは違うルートを歩いている。
「本当、ありがとうございました……。おかげさまで、助かりました」
沙羅は戸来と知世とに、交互に頭を下げた。
「いいよ、いいよ」と戸来が手を振り、知世が「そうよ」と頷いた。
「とにかく、無事でよかったわ。ケガもないみたいだし、何事もなく済むのが一番よ」
「そうそう。気にすることないって」
そう言ってくれることに感謝しながら、沙羅は二人を見た。
それにしても。
──ヘライさんって、恋人いたんだ……。
こうして話しているのを見ると、戸来はもとより、知世もかなり大人びている感じがする。数年後には自分も同じ年齢になると思うと、不思議な感じがした。二人がどういう経緯で出会ったのかも、普段どんなことを話しているのかも、まったく想像がつかないのだ。
特に知世なんて、シャンプーなのか香水なのかわからないが、ふわりと良い匂いがする。ドキッとするくらいで、幽霊騒動が済んで落ちついてみると、独特の居心地の悪さがあった。
でもやっぱり、きれいな人だよなぁ。そう思ったときだった。
沙羅は息をのんだ。目だけでふり返った視界の先、知世の後ろに、さっきの影が見えたのだ。驚きのあまり、声も出なかった。
どうしよう、と思っていると、影の手が動いた。ゆっくり、ゆっくりと、人間ではありえないほどの長さに薄く伸びて、沙羅を通りすぎていく。
──今度は、ヘライさんに?
沙羅の心臓がうるさく鳴りだす。喉がカラカラになって、声が出ない。影は戸来に近づいていく。いよいよマズい、と思った、そのときだった。
「彼は渡さないわよ」
小さな低い声に、沙羅はハッとした。夕日を背に、知世が影を見つめている。うつむき加減で、前髪の下から覗く目は、じっとりとした不思議な輝きを帯びていた。
その目の光に、沙羅はドキッとした。恐怖で、だ。
影の動きが止まった。空気に溶け込むように薄くなり、そのまま、消えていく。
「二人とも? 大丈夫?」
振り返った戸来に、知世は笑みを浮かべ、「平気よ」と首をふった。さっきまでの冷たい光はなく、花が咲くような笑みだった。
沙羅の視線に気づいたのか、知世と目が合う。「ね?」と首をかしげてきたその眼差しは優しく、少し茶目っ気を含んでいた。
まだ心臓がバクバク鳴っている沙羅の前で、戸来は「そう? なんか、ヘンな感じがしたんだけど……」と首をひねってから、言葉をついだ。
「ま、いっか。念のため、このままクロさんのところに行こうと思うんだ。サラさん、いいよね?」
「は、はい。わたしもそのほうが、いいかなって……」
慌てて頷いた沙羅に、戸来は「だよな」と頷いた。
「知世さんも一応、あの人に見てもらったほうが安心だと思うんだけど、どう?」
「ええ、大丈夫よ。行きましょ。ありがとう、戸来くん」
知世が頷く。
しかし、沙羅は見のがさなかった。〈クロさん〉の名前が出た瞬間、戸来が目線をはずしたその隙に、知世の目が、また、いや、さっき以上に冷たく、暗い光を帯びたのだ。すぐにその光は消え、代わりに、寂しげな光が忍び込んだ。
──悪い人じゃ、なさそうだけど……。
でもやっぱり、恋愛ってよく分からないな、と沙羅は思った。
どこか妙な空気感のまま、沙羅たちは黒樹の事務所へと足を運んだのだった。
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