3.おとしご

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「なるほど。それで、ウチにやって来た、と」  デスクチェアにもたれかかり、長い指を組んで微笑んだ黒樹に、戸来は頭を掻いた。ドアや窓に視線を彷徨わせ、デスクを指で叩きながら、声を顰める。 「まぁ、ついてきてはいないみたいなんですけど、一応、ね。大丈夫ですよね? その、最初に遭ったサラさんとか、知世さんとかにあとからついてくるなんてことは……」  沙羅はそっと、隣の知世を見やった。革張りのソファに品よく腰かけている知世は、注意深く、怪異相談所の所長を見つめていた。 「大丈夫なんじゃないですかね」  黒樹があっさりと言う。 「私が居合わせていたら、確実に斬っていたでしょうし、ぜひとも今すぐ、そうしたいところですがね。〈ただついてくる影〉というのは、おそらく、化生のなかでも相当に弱い、化生とまではいかないモノでしょうから。ついてこなくなったというのなら、気にする必要はないと思いますよ」  気楽な言葉に、戸来が鼻白む。あの、と沙羅は口を挟んでみた。 「化生とまではいかない、って……? やっぱり、幽霊とかってことですか?」  ちらりと知世を見つつ、言葉を選ぶ。知世と黒樹の関係がどういうものなのか、知世はどこまで怪異相談所のことを知っているのか分からないから、なんとなく、緊張した。  黒樹が目を細めた。 「そうですねぇ、まぁ、幽霊といっても差し支えないでしょう。大まかに言えば、〈幽霊〉というのは、〈化生〉に括られるモノですが……」  そこで言葉をきり、黒樹は戸来を見た。 「例えば、事故で人が死んだとします。その人の想いが残留思念となって、事故現場にとどまる。生前のその人が現場に突っ立っているのが目撃された、となれば、それはまだ、一般的に〈地縛霊〉や〈幽霊〉と言われるようなモノです。ただ存在しているだけで、害はない。まぁ、同じ〈霊〉でも、〈生き霊〉となれば、また別の力をもつこともありますが……ですがこれもまた、人間の感情を餌とする化生とは、違うモノです」  なぜか知世に、微笑を投げかける。  知世は相手をジッと見つめ返し、次の言葉を待った。  デスクチェアをキィキィと回転させながら、黒樹は説明を続けた。 「しかし、残留思念や、あるいは人の〈あの場所に幽霊がいるに違いない〉、〈ここにはこういう化物がいるのだろう〉という想いが、なんらかの形で生き物としての核をもったら……それは、私が仕事の対象としている〈化生〉となります。 〈化生〉は人の感情から生まれ、人の感情を喰らう。そのために、人間を襲うなり、寄生するなりして、相手の体液から感情を喰うわけですが……ただの影に、そんなことはできない。聞いた話では、影を踏むといった接触すらなく、沙羅さんたちの感情や体調にも、変化はないようですし……そうなれば、少々タチの悪い幽霊、化生になり得ていない雑魚ではないか、と」  まぁ、と黒樹は天井を見上げた。 「私が見つければ斬りますが、もしかしたら、物好きが先に捕まえるかもしれませんし……」  えっ、と沙羅が聞き返そうとした瞬間、黒樹はパッと笑顔になり、立ち上がった。 「とにかく、心配するほどのことではないでしょう。ですから、大丈夫ですよ。秋の夜長とも言いますし、学生さんは学業に専念してください」  実質、帰れという意味の言葉に、沙羅はなにかがひっかかる思いだった。が、眉を顰めた戸来や、黒髪を耳にかけた知世も帰り支度を始めたので、渋々立ち上がる。 「色々教えてくださって、ありがとうございました。所長さんのおかげで、だいぶ安心しました」  頭を下げながら、知世がチクリと言う。帰る間際、黒樹が戸来になにごとか話しかけたが、戸来はピンと来ない様子で曖昧に頷いただけだった。 「あ、ありがとうございました……」  腑に落ちないながらも沙羅が頭を下げると、「いえいえ」と黒樹は目を細めた。 「学校帰りに災難でしたな。お気をつけて」 「行きましょ、沙羅ちゃん」 ──ん? あれ、なんだろ。  知世に促され、事務所を出ようとしたとき。沙羅はふと、黒樹のデスクに目をとめた。  黒電話の下に、メモが置かれている。ついさっきまで誰かと話していたか、それとも、これから誰かと話すつもりなのか。  不思議に思っていると、黒樹と目が合った。相手は目を細め、掴み所のない微笑みを浮かべていた。  心配する戸来と知世の誘いを断り、沙羅はひとりで下宿まで帰った。下宿まで送るという申し出はありがたかったが、向こうが恋人同士だと思うとなんだか気がひけたし、これくらいは一人でも大丈夫だと思いたかったのだ。  まだ先ではあるものの、親戚からの誘いにのる以上、自分一人で行動する、ということに慣れておきたかった。さっきは戸来たちに頼ってしまったが、多少の怖い場面や、理解できない場面への耐性をつけておいたほうがいいという気がしていた。  そうだ、この前のことだって……。  沙羅は記憶を手繰り寄せた。  夜になるとあらわれる青年が、初めて言葉を発した日。真っ直ぐに沙羅を見つめ、「ニ、エ」と言うだけだったが、沙羅はなにかが確実に変わっていくのを感じていた。  沙羅自身がいくら自分の名前をくり返して聞かせても、青年はそんな沙羅を見つめ返し、「ニエ」とくり返すだけだったのはひっかかるけれど……まさか、〈贄〉なんて意味だったらと思うと、なにか、厭な予感がしてくるのだ。  それに、やはり、自分の涙について知るためにも、化生に関わるアルバイトをつづけるためにも、できるときに少しくらいは無理をしておいたほうがいいだろう。戸来たちに相談するのとはべつに、自分自身の基礎能力としても……。  そう気を張って、下宿への角を曲がったとき。  沙羅はおもわず、立ちすくんだ。  暮れ始めた空の下、電柱に寄り添うように、ひとりの影が立っていた。真っ黒な影。まさか、さっきの……と体を強張らせ、沙羅はすぐに、力が抜けていくのを感じた。ついてくる影とはべつの、きちんとした人間だとわかったのだ。  中学生くらいの女の子だった。黒い、さらりとした髪をポニーテールにして結い上げていて、ブルゾンもズボンもブーツも黒ずくめ。影に見間違えたのも無理はない格好だった。 ──びっくりした、けど……誰かとまちあわせかな?  沙羅は胸を撫で下ろし、歩き始めた。  下宿やアパートが密集しているこのあたりでは、大学生や社会人が多い。それでも、少し離れたところには民家やマンションもあるし、一本ずれた路地に入れば、登下校中の小学生や中学生に会うことも珍しくなかった。ドキリとさせられたものの、女の子からしたらきっと、これから誰かと遊ぶために立っているだけなのだろう。  女の子から少し離れるようにして、下宿へ向かう。今日は大変だったな、とボンヤリ歩いていた沙羅は、数メートル横で女の子が動いたことに気づかなかった。  そのせいだろう。 「こんにちは」  気づいたら真横に女の子がいて、沙羅は弾かれたように顔を向けた。 「あ、すみません。驚かせちゃいました?」  どこか少年のような響きをもつ声だった。ぽかんとする沙羅に、見知らぬ少女は人懐っこく、目をきゅっと細めた。  ポケットをゴソゴソと漁り、二枚の紙を押しつけてくる。 「え、えっと、これは……?」  沙羅が目を白黒させていると、少女はニコリと笑って言った。 「わたし、バンドやってるんです。もしよかったら、おねえさんにも聴きに来てほしいな~って。場所と日時はそこに書いてあるんで、ヘライさんにもよろしくお願いしますね」  ──ヘライ。戸来?  流れるようにくり出された名前を頭の中で変換し、沙羅がハッとする。しかしそのときにはもう、少女は駆けだしていて、その姿は追いつけないほど小さくなっていた。  しかたなく、渡された紙切れに目を落とす。くしゃっと折目のついた長方形の紙には、〈ファジー 夜間ライブ 招待状〉と記されていた。聞いたこともないバンドだが、戸来の知り合いなのだろうか? それにしても、どうして自分のことを知っているんだろう。この場所だって、まるで、沙羅が下宿暮らししているということを知っていて、待ち構えていたかのような……。  そこまで考えて、沙羅はギクッと顔を強張らせた。 「どうしよう。つい貰っちゃったけど、これ、タダでよかったのかな……?」  口からつぶやきがこぼれる。それに応えるかのように風がふき、沙羅の手のなかにある招待状をカサカサと鳴らしていた。
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