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「へーぇ。上手いじゃん。耳を塞ぐようなものではなかったし、普通に聴いちゃった」
「ありがとうございます」
「それでも、このあたしには勝てまい。あっはっはっは」
マイクを置いた僕の歌を批評しつつ上機嫌に高笑いする女に向かって、そうですね、と相づちを打つ。
すると女は突然「適当にそうやって言やぁいいと思ってんだろ、おい」と声をあげながら、あろうことか僕に飛びかかってきた。完全に油断しきっていたせいで踏ん張りがきかずに、部屋に作りつけられた、クッションの薄っぺらいソファに押し倒される。
女が僕を見下ろすような位置にいたのは最初の一秒間くらいで、まるで二階建ての建物の一階だけがぺしゃんこになったみたいに、そのまま全体重を僕の身体にあずけてきた。驚くほど重くはないが、それよりも酒臭さと香水が混ざったにおいや、かぁっと熱を持った柔らかい感触のほうが、色々ときつい。
脳内の要らぬ部分が起き出しそうになったのを感じた僕は、ちょっと、と女の身体を引き剥がそうとした。
「起きてください」
「嫌だ」
「いや、ちょっと」
「別にゲロ吐いたりしないから、少しこのままでいさせてよ」
押し入ってきてからというもの、この女のテンションは荒天を飛ぶ飛行機みたいに乱高下を繰り返している。
やがて「あのね」と静かに話し始めた女の声色は、さっきまでのものが雲ひとつない晴天だとするならば、静かに空が泣き出した瞬間みたいな湿り気を帯びていた。
「今日ね、サークルの飲み会だったのね」
「はあ」
「男女半々で10人でさあ、そんなかにあたしの彼氏もいたの」
「はい」
「いま、おまえに彼氏いんのかよ、って思ったでしょ」
「逆にいないほうが不自然だとは思いました」
「なによ、急に冷静になりゃぁがって……まーいいや」
まあいいや、と言ってるときの女はたいてい根に持ってるもんだ……と、彼女持ちの友人がどこか自慢気に語っていたのを思い出した。やっぱり奴が言っていたことは、奴の彼女にしか当てはまらないことだったらしい。いま僕を押し倒しているこの女は、本当にどうでもよさそうな顔をしているし。
答え合わせのように、女はそれ以上その話を引っ張らず、前に進めた。
「みんなで、二次会でここのカラオケに来てさ。当然、あたしと彼氏も一緒で。でも混んでるから大きい部屋でも5人部屋ふたつでしか用意できませんって言われてね。そこで部屋が分かれて」
「分かれて」
「まあ、最初のうちはさぁ、気持ちよく歌ってたわけよ。お酒も飲んで」
「その様子で」
「酒臭いって言いたいの」
「自覚はおありみたいで、よかったです」
「きみ、どうせ恋人いないでしょ」
「いたならこんな時間にこんなとこで歌ってません」
少しずつ反撃の狼煙をあげていく。加減を間違えた途端に火薬が大誘爆を起こすこと必至の、超危険なミッションだ。
でもきっとこの女は、さっきみたいに理不尽な暴れ方はもうしないだろう。根拠はないけれど、そう思った。
「ふん」とわざとらしく言ったあと、ぐし、と女が鼻をすする音が部屋に響いたことで、予感は限りなく確信に近づいていく。
「で、なんだっけ。……あー、さっきトイレに行ったのね」
「ええ」
「この店のトイレって、外階段の隣にあるじゃん。んで、階段に出るドアも開いててさ。そこから彼氏と、あたしの親友の声が聞こえてくんの」
ここで「ああ、じゃあそれで――」と言わないのが礼儀だ。恋愛経験に乏しい僕にだって、それくらいのことは読める。なんでもかんでもすぐに答えを求めるのは、悪手でしかない。
「声は上のほうから聞こえてきたから、ちら、って覗いたんだよ」
「そしたら?」
「それはそれは、もう、濃厚なラブシーンがですね」
「はい、そこまでで結構です。ありがとうございました」
もうそれ以上話さなくていい、という意味で言ったはずだった。しかし女はその逆で、もっと自分の中にあるものを吐き出してしまおうとばかりに、その唇が閉じられることはなかった。
たかが理性程度で防ぎきれない、行き場のない虚しさや悲しさ、衝撃、心の傷。それは僕としては、単純な吐瀉物よりもずっと後始末に困る類のものだった。
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