intrusion

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「でも、よかったですね」 「は。なにがよ」 「僕がさっき話した、あなたの歌声への感想に、嘘はひとつもないです。あの数分間、僕はあなたの声だけに聴き入って、あなたのことだけ見ていたんです。だから、あなたが適当に僕の部屋へ押し入ってきたことの意味はあったんじゃないですか」  数刻、女は呆気にとられたみたいな顔をして、唇は薄い新書くらいなら咥えられそうな程度に開いたまま、何も言わなかった。ゆっくりと僕の吐いた言葉を咀嚼しているようにも見えるし、もう酔いがある程度の水準を超えて、あとは寝落ちする瞬間を待っているようにも見えた。  どちらでもよかった。  僕はいま、どさくさに紛れて、女の歌を聴いた感想を素直に唇にのせたのだ。普段はただ、ひとりぼっちの狭い部屋で下手くそな歌をうたうことでしか自分の中にあるものを吐き出せない僕が、歌以外ではっきり表現をすることができた。  今はそれだけで十分だ。まさか、こんなことがきっかけになるなんて、思っていなかったけれど。  やがて女は、にたぁ、と悪戯っぽく笑みを浮かべつつ、沈黙を破った。 「きみもさあ」 「なんです」 「本当は運命がどうとか何も信じてないのに、今はきっと感じてるんじゃない?」 「だから何を」 「この出会いが、自分を変えるきっかけになったらいいのに――って」  僕が一切それを望んでいなかったかと言えば、即座に「否」と切り返すことができない。  実際問題、僕は歌の上手い異性にはめっぽう弱いのだった。だから女がマイクを握っているあいだに店員を呼んだりすることもせず、ひたすらに全身で女の歌声を摂取した。  そして、たとえこの女との出会いが泥酔と裏切りから生まれた偶然だとしても、そこから生まれたものがあとで必然だったと思えればいいや……とも一瞬考えてしまった。  全部読まれてしまっている。僕よりも明らかに判断能力が鈍っていたはずの、この女に。  悔しさに歯をきしませるより先に、女がぽつりと言った。 「きみがそれを望むなら、あたし、きみの力になるよ」  これもなにかの縁ってね、と女は笑っている。  目の前に転がってきたものを素直に拾い上げるべきか悩みかけたけれど、いつの間にかすべての主導権を奪われていて、それを好ましく感じている自分自身に気づいたことで、僕はすんなりと白旗を掲げる決心を固めた。 「でも――」 「言ったでしょ。過去は忘れた。どんなに惚れてた男でも、愛想が尽きたらただの猿」  まあ、そいつがやってた行為は確かに猿だった。  女が、ぷふ、と吹き出したことで、僕は頭の中のモノローグを無意識に口走っていたことに気づく。  こんな短時間で、僕は無意識に自分自身を開け放している。今更、隠しごとが通用するようにも思えない。  だったら。 「じゃあ、早速ですけど」  だらりと横たえていた両腕に力を込めて、ゆっくり上体を起き上がらせた。彼女は今も僕の太腿の上に座ったままだが、そのまま一緒に身体を起こす。  テレビ画面の明かりに照らされた彼女は、いま、僕だけを視界におさめている。出会い方は乱暴だったけれど、それは確かに目の前にある事実であって、胸の奥がふるえるのを感じる。  そっと言った。 「さっきの曲、もっかい歌ってもらえませんか」  彼女は短く、あは、と腹を抱えて笑った。 「どんだけ好きなの」 「あの曲、本当に好きなんです」 「……まあ、いいけど。あの曲を歌うあたしのことも、そのうち同じくらい好きになってるはずだから」  言いながら、彼女は右手薬指の指輪をすっと抜くと、ウーロン茶の残ったカップの中に沈めた。  この曲が終わったら、まずは彼女の名前を訊くところから始めようか。  いや、彼女の場合は、こちらが先に名乗らないとだめな人だろう。  また押し倒されても、困るし。  何度も耳にしている曲のイントロが、なぜか妙に心地よかった。 /*end*/
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