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「キミ今日、引っ越しじゃなかったっけ?」
「はい! サダカんちに荷物持ってく途中です!」
榊…もうすぐ安濃…幽玄は、郷土資料館受付前に仁王立ちして、子供のように返事をした。
だが、彼が走って青瀬のところに来る時は、何かしら心騒ぐことが起きた時だ。二匹の疳の虫を身に宿す幽玄にとって、動揺は意外に侮れない事態である。
「…で、寄り道してどうしたの?」
幽玄は口をへの字にした。
「その…軽トラに荷物積んで、大家さんに鍵かえしてご挨拶して、サダカんちに向かってたら、急にその…なんか…上手く言えないんですけど」
「うん」
なんとなく察しがついて、青瀬は話を促した。
「俺、社会人になってからずっと、あの部屋に住んでたんです。高校卒業してからずっと、ですよ。八塚一で修行してた時も解約しなかった」
「うん」
「なのに俺、サッサと出てっちゃって……気がついたら、部屋の写真ひとつないんです。あんなに…守ってもらった、のに」
幽玄は養親の元で酷い扱いを受けていた。家を出た後も、幾度となく金を求められたり面倒ごとを頼まれ続けてはいるが、アパートでひとりになれる時間は貴重だったろう。
「誰かに、何かされる心配しなくていい、本物の『自分の部屋』だったのに」
「うん」
「なのに…手続きとか、あれやってこれやって、って考えてばかりで、あっさりサヨナラしちゃって」
「うん」
「なんか、もっとあちこち見ておけばよかったな…って」
「そっか」
青瀬は微笑んで、幽玄の戸惑いを大人しく聞き続けた。
両親が転勤族だった。何度も引っ越し、入学した学校で卒業出来たのは大学くらいだ。だから知っている。
そういう感情も、今だけだと。
写真を撮っても、見返したことはあまりない。
どれだけ恋しくても、新しい暮らしにバタバタしているうちに、前の住処のことは思い出さなくなっていく。だから知人とは連絡を密にしないと、あっという間に疎遠になる。陣内や一弘と友情が続いているのも、彼らのマメさによるところが大きかった。
大学生の頃ふと思い立ち、電車とバスを乗り継いで、幼稚園の頃に住んでいたアパートを見に行ったことがあった。他の人が住んでいるから、外からチラッと見ただけ。当時の人達ともう連絡も取ってなかったから、会う人もいない。すれ違う中に知ってる人がいても、分からない。自分でも何しに来たか分からなかった。
アパートは、記憶のそれより燻んで見えた。バス停で、待ち時間に途方に暮れた。それだけの旅。
だが、それを幽玄に話す気はなかった。
今だけなのだ、こういう感情は。これもいつかはいい思い出になる。
それに、町の中心から山の麓とはいえ、同じ町内だ。知らない土地でもない。自分のような経験とは、きっと無縁の引っ越し。
つまらないことを言って、水を差すことはない。
青瀬は笑って相槌をうった。
「うん、なんかわかるよ」
※※※
サダカの家で荷物を片付けて、少し荷物の置き場所や部屋割りで揉めて、サダカの養母と三人で簡単な宴をした。昔からなにかとお世話になってたし、何度も泊まったことがあるから、勝手は知っていた。ただ幽玄だけが、これから「家族」に変わる。
サダカと二人、部屋で落ち着いた夜も遅く。
「…本当に俺、安濃になって、いいのかな…」
「それ何百回言うんだよ。お前が望む、オレも望む、母ちゃんも許した、ならいいだろ」
榊の親族が迷惑かけないか。そもそも自分が迷惑かけないか。不安は常にあった。だが、サダカは隣にいてくれる。
ギュッと抱きしめた。
かつてのアパートのことは、思い出さなかった。
(了)
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