第二章 混迷の中

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 ナミがいた。  身体の前に差し出した手のひらの先に黒い球体、それが先ほど彼に襲い掛かろうとした黒犬のなれの果てだろうことは訊かなくても分かった。 「待ってたよ。早くこの輪っかを外してくれ。動きにくいったらありゃしない」  ナミは、あずき色のベレー帽をかぶり、(えり)の広い軍服然とした上着とズボンそして黄ばみの欠片さえないように見える白いシャツに濃紺のネクタイを締めていた。 「先ず状況の説明をする気はないの?まったく、どれだけあたしがあなたを捜し回ったと思っているのかしら」  ナミは革製のブーツを履いていたが、足音も立てずに彼の背後に回り込んだ。 「いいから早く。後でゆっくり説明するから」  ナミは彼の背後に立つと、彼の身体を締めつけている拘束帯の操作部位に向かって、手のひらをかざした。  パキパキという音と共に、操作部位が(ゆが)んで渦を作り周囲の部品を巻き込んで凝縮していった。更に帯が締まり、彼は言い知れぬ痛みを両腕と肋骨に感じた。やばい骨が折れる、そう思った瞬間、彼を拘束していた帯の一部がバキンと砕けて周囲へ散らばった。彼はやっとの思いでその(いまし)めから解放された。  頭の先から指の先まで、あっちこっちに雑多な痛みが、騒がしいほどに走り回っている。先ほど締めつけられて、痛みを耐えようと力んだせいか、額の傷からは更なる血流が(あふ)れ出ていた。それでもかたわらで、瞳孔が全開した目と、今となっては声も出せない口を大きく開いている兵士の姿を見て、しばし目をきつく閉じ、歯を食いしばった。そして彼はホールに向かって歩き出した。 「なんだ、この世界は。(すさ)みすぎだ。リサ、もうちょっと穏やかな世界にできなかったのか……いいさ、これも君の一部だって言うんなら受け止める。全身で、俺のすべてで受け止める」胸の中の思いが口から漏れ出ていた。  前に出す足が重い。痛みに耐え続けたせいか身体中の感覚が鈍くなっていた。泥沼から這い出たばかりのような不快な感覚に全身が(おお)われていた。 「何が起こるか分からないわよ。慎重に。全方位、警戒を怠らないように」  彼の横に歩み寄ってナミが言った。彼は前を向いたまま進んだ。受け止めてやる、受け止めてやる、と呟きながら。  彼らはホールの入り口に達した。内部を見渡す。彼が想像していた以上に混沌(こんとん)とした場景だった。必死の形相をして這うように逃げる兵士、歯を食いしばりエネルギー弾を放ち続ける兵士、恐怖に(さいな)まれ座り込んで叫び声を上げる兵士、そんな兵士たちを次々に狩っていくケガレの群れ、ケガレに捕らわれて絶命していく兵士たち、この狭い空間で無規則に(うごめ)き合っていた。天井から崩れ落ちた大きな塊がそこかしこに転がっていた。小さな石や砂が間断なく降っていた。(ほこり)っぽい上に黒い霧が濃く漂い空気が淀んでいた。 「全員退却、退却しろ!早く退却しろ!急げ」  ノスリの叫ぶ声が淀んだ空気を震わせた。目を凝らすとホールの中心辺りでHKIー500を構えて敵を撃ち落としながら叫ぶノスリ他数名の姿があった。タカシはノスリのいる方向に進みはじめた。前方から一人の兵士が倒れ込みながら駆けてきた。戦闘意欲のすべては削がれ、恐怖に(むしば)まれているという顔をして。  その兵士がタカシの脇を走り抜けようとした時、黒犬が一陣の風のような速さでその兵士の背後に飛び掛かろうとした。タカシは右の拳を固く握り、叫びながらその拳を黒犬に向かって突き出した。  黒犬は一瞬にして霧散した。  ホール内のすべてのケガレ、黒い霧がその刹那(せつな)、動きを止めた。すべての黒き者が彼を見た。彼を認知した。ホール内の空気の質が一変した。重く、張りつめた空気になった。黒衣の者たちが口々に呟いた。いた、見つけた、いた、見つけた。  黒い者たちが一斉に動き出した。黒い円盤が、黒犬が次々に速度を上げつつ彼に向かって飛んできた。黒衣の者は音もなく彼に歩み寄ってきた。 「ねえ、バカなの。慎重にしてって言ってるじゃない」  そう言いながらナミは一歩前に進み出て、向かってくる円盤や黒犬を次々に球体にして、投げ捨てた。それでも無勢に多勢のため防ぎきれないものも出て、彼に襲い掛かってきた。彼は両手を前方に差し出し、右から左から上から下から飛んでくる円盤や黒犬を防ぎ、霧散させた。  顔中を血だらけにした男と見知らぬ女が次々にケガレを撃退する姿を驚きの目でノスリは見つめた。信じられなかった。生身の人間が素手でケガレに対抗している。いやそれどころか駆除している、そんなことは彼の常識の範疇(はんちゅう)から(いちじる)しく逸脱した行為だった。  しかしノスリはすぐさま正気に戻った。ケガレは全部あの二人の方へ向かっている、今なら退却できる。この機を逃すまいとノスリは再び全兵士に向かって叫んだ。 「退却だ。今すぐこのホールから出ろ。少しでも動けるなら這ってでも退却しろ!急げ、退却だ」  ホール内の兵士はノスリと同じように黒い者たちの包囲から今、自分たちが解放されていることを悟って、我先にと外に繋がる通路に向かった。走れる者は半数にも満たなかった。他の者は這いながら必死に出口を目指すか、まったく動けないかのどちらかだった。   ノスリを含め五人になっていたノスリ班の班員は、動けない兵士に手を貸しながら出口を目指した。自分たち全員が何とか脱出できるまで、タカシとナミが持ちこたえてくれることを祈りながら。
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