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最初の彼の記憶はソファーでした。
その家族は、引越してくるとリビングに大きなソファーを置きました。みんなで座ることのできる、布張りの、ゆったり大きなソファーでした。
「部屋全体が明るくなると思うわ」
お母さんの見立てのとおり、ソファーの明るいブルーは部屋を明るく晴れやかにしてくれました。イエローとグリーンのクッションがぴりりとアクセントになっています。
彼はすぐに、このソファーが大好きになりました。
ソファーの前には深い紫色のカーペットが敷かれ、こげ茶色のテーブルが置かれました。
「きっとこのリビングが家の中心になるね」
お父さんが言ったとおり、家族はいつもここに集まるようになりました。
ソファーでお父さんはコーヒーを飲み、お母さんは本を読みました。テーブルでお兄ちゃんは工作をして、お姉ちゃんは絵を描きました。
ふかふかのソファーの上でみんなの笑い声がひびくと、彼は幸せな気持ちが部屋の中いっぱいにつまっているような気がしました。
◇
リビングのとなりにはキッチンとダイニングがあります。
ダイニングには、お父さんの運んだぶあつい頑丈なテーブルが置かれました。
テーブルの上と、窓、それからピカピカのシンクの前にはお母さんが花を一輪ずつかざりました。
お父さんとお母さんはどちらも料理が得意です。
お父さんが大きなお肉をジュッと焼くあいだに、お母さんがニンジンをお花の形に切ったり、ブロッコリーを鮮やかな緑色に茹でました。お兄ちゃんがパンを切り分けて、お姉ちゃんがスープをよそいました。
いい匂いが体中に染み込んでいくのを彼は感じます。
毎日、家族そろって「いただきます」と言いました。
◇
細長い廊下を抜けると寝室があります。
大きなベッドは雲の上みたいです。シーツはパリッとして、枕はふっくらしています。
ベッドサイドにはテーブルランプが置かれました。ランプは白いシーツにほんのりオレンジ色の光を落としました。
夜、寝る前にはお母さんが本を読んでくれます。
眠りに落ちる前の部屋に、本を読むお母さんの声がひびきます。ここちよく、やすらかで、彼は何もかもが満たされた気持ちになるのでした。
◇
もちろん時には事件やハプニングだって起こります。
お兄ちゃんのボールが窓ガラスを割ったとき。
お母さんがカレーのお皿をひっくり返したとき。
お風呂のお湯が脱衣所まであふれたとき。
嵐の日の停電。
お鍋を焦がして煙が出たり。
干していた布団が飛んでしまった日曜日。
いつも、お母さんが「きゃあ!」と声をあげ、お父さんが「まあまあ」と言います。
子どもたちはドアのかげからそれを見て、くすくす笑ったり、怒られないかハラハラしました。それからお母さんを手伝ったり、別の部屋に逃げ込んだりするようになったのでした。
◇
「すっかり片付いたわね」
お母さんが言いました。家族はそろって部屋を見わたしました。
今日は家族がこの家を引っ越していく日です。
本棚は空っぽになり、本は箱につめられています。洋服も、食器も箱の中です。カーペットはくるくると丸めて立てかけられています。テーブルライトは慎重に包まれました。マグカップも、布巾も、花瓶も、写真立てもいつもの場所にはもうありません。
「物がないと別の家みたいだ」
お兄ちゃんが言いました。
「もう帰ってきても私たちの家がないなんて、うそみたい」
お姉ちゃんが言いました。
「住むところがなくなるわけじゃないんだから」
お父さんが笑って言うと、お姉ちゃんが首を振りました。
「いつかここに遊びにきたとしても、もしまちがえてここに帰ってきても、もう私たちのこの家はないのよ。別の家族が住んでる別の家だもの。家はここにあるのに。なんだかまだ信じられない」
「そうね」
悲しそうにするお姉ちゃんに、お母さんが優しくうなずきました。
「この家も、新しい家族が来て生まれ変わるのよね」
彼はいろんなことをゆっくりと思い出していました。
初めて家族がここに来たとき、日当たりや、真っ白な壁や、高い天井をほめられてくすぐったい気持ちになったこと。
毎日、家族の出来事を見ていました。
お兄ちゃんが学級委員に選ばれて走って帰ってきたとき。ドアを開けるお兄ちゃんの顔がうれしそうで、彼までうれしくなりました。
お母さんのお誕生日のサプライズパーティーをこっそりキッチンで準備していたときは、彼までドキドキしました
お姉ちゃんが寝室で一人で泣いていたときは、一緒に泣きたい気持ちでした。
お兄ちゃんお姉ちゃんの入学式と卒業式には玄関で写真を撮りました。彼も誇らしい気持ちでした。
運び出される荷物とともに、記憶は少しずつ薄れていきました。
さみしいとか、悲しいとか、行かないでほしいとは思いませんでした。家はその場所にあり続けます。
また新しい家族が来て、新しい家に生まれ変わる日を待ちながら、家はゆっくりと静かな眠りに落ちてゆきました。
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